明慧法会|人の情を放下し 清朗に成熟する(下)
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年2月10日】(前文に続く)

 二、誓約を実現し、時間をムダにせず人を救う

 家に帰って半年後、環境にも変化が起きました。子供が学校に上がり、私は食事を作り、家事をし、子供の送り迎えをしなければならず、時間は明らかに足りず、私はすぐに少し適応できなくなりました。すべてはみな師父の按排でした。ある時、私は同修に会いに行き、知らない他の同修にも会いました。その同修は携帯電話を持っていますが使いたがらず、メールを送ることができ、写真付きのメールも送ることができ「いりますか」と私に聞いてきて、私はそれらを受け取りました。その後、携帯電話の写真付きメールの技術を知っている同修に、師父が私に接触させてくださり、私は技術を知っている同修に携帯電話の技術を教えてほしいと必死に頼みました。こうして同修の惜しまぬ応援の下で、私はメールの一斉送信の技術と写真付きメール技術をマスターしました。

 同修がくれた番号は実番号で、送る相手によって異なる真相内容を選んで写真付きメールにすることができ、写真と優れた文章が、長い時間の中で人を救う大きな役割を発揮しました。同修を救う過程で、明らかになった内容を写真付きメールにして関係部署で暴露し、中国共産党を震え上がらせる大きな役割を果たしました。そのことで、警官はとてもおとなしくなり、同修に対する迫害が減少し、同修の救出も円満に解決しました。

 しかしゆっくりとですが、写真付きメールの受信率もだんだん低くなりました。明慧ネットは音声電話技術を提供し、一部の同修が参加しています。その時の人々の受信率は高く、私は毎日多くの携帯電話で3時間以上(車の助手席に置いた)、毎日少なくとも6、700人が内容をすべて聞き終わりました。毎回の三退率も10人以上でした。師父が説かれた「大法の真相、戸々伝わる 衆生得度して心漸次明り 警、民冷静たり見ても阻まず」[4] を本当に感じました。携帯電話のカードの実名制が施行されるに伴って、私は他のプロジェクトを選択しました。

 ゆっくりとですが、私の修煉環境もだんだん良くなり、子供は学校を変え、私の実家の近くに転校して学び、こうすることで、私の母親が私に代わって子供の面倒を見ることができました。

 その時、明慧ネットはページ数の多い「永恒」という資料を提供してくれ、内容は全面的な内容で、基本的な真相が皆そろっていました。私は「これらの資料は、人々が必ず理解しなければならないもので、さらに人々はこのパンフレットを見さえすれば、思わず見終わってしまい、震撼力が大きく(当時自分で感じた)、衆生を救い済度する力が大きい」と思いました。私は切実に、この「永恒」資料を配りたいと思いました。さらに地元であまねく一通り配りたいと思いました。

 私は数人の同修と切磋琢磨して交流し、共通の認識に達した後、同修はそれぞれ責任を負い、一連の作業が役割分担して行なわれるような動きを形成しました。資料拠点が定期的に資料を出し、数人の同修が包装を担当したので(同修の心性は基準に達し、しっかり包装された資料を大きな袋に入れる時、異なった資料を適度に分けてしっかりと入れた。資料を配る同修が順番に配る時に便利なように、数件の家にみな同じ資料は出現せず、内容が異なり互いに回覧することができた)、私と他の1人の同修は配ることに責任を負いました。私たちの地区のほとんどが農村の山間部にあり、面積が比較的に大きいため、複数のルートが複雑に入り組んでおり、複数の場所で家屋がまばらで、1年8カ月かけて基本的には一度配り終わり、約十数万部の資料を配りました。

 この1年以上に資料を配る過程で、私たちは毎回800部から、さらには1000部の資料を持ち、ページ数の多い資料は重い分量があるので、スクーターで人が資料を運びました。往復で数100キロ(ほとんどの場所が比較的遠く、一度行くのも容易ではないので、毎回多めに持っていく)、多くの困難を克服し、多くの人心と執着を放下しました。出かけるのに天気が本当に不適合な場合を除いて、一般的に私達はみな1日おきか、あるいは2晩に1晩に1回出かけることを選択しました。私が出かける時はやはり子供が宿題をやり終えるのを待たなければならず、子供を眠らせてからでないと出発できませんでした(子供は遊びに夢中で自覚がないために、私はできるだけ自分で子供をしっかり連れていく責任を果たすようにし、こうすると夫も安心することは、言うまでもなかった)。一般的にいつも夜の2時、3時で、さらに4時、5時になってやっと帰り、帰ったらやはり子供を学校へ送らなければならず、少し辛いと感じました。だがしかし、その晩に通ったルートを思い出し、ほとんどの場所は2回目に行きつくことのできない場所で、衆生が真相を受け入れることは容易なことではないと思いました。自分は責任と使命のある身であるといつも感じ、衆生のために真相を理解させ、喜ばせる機会があるのであれば、苦しみや疲れは二度と感じませんでした。

 私はすでに完全にこのプロジェクトに耐えられると、すぐに私も思いました。資料を配る過程の中で、師父は私に超常的な能力を備えさせてくださり、同修がオートバイで私を乗せ、できる限り家に近づき、私はオートバイの後ろに乗ったままで配りました。目標とする場所は家の正面玄関、あるいは門の前のあたりで、私が正しく配れる率は90パーセント以上に達し、いくつかの資料は門の下から入れ、いくつかの資料は門の所に立てかけ、時には同修がうまく速度をコントロールできずに運転し、少し速めになり、オートバイのスピードの慣性で、私はうまくコントロールできず、配った資料が目的とする場所に達していないのを目にしました。しかし資料は南から北に戻ってくるかのように向きを変えることがあり、ちょうど目的の場所に落ちます。実際には、師父がいつも弟子のそばにいらっしゃり、私達が心を込めて行なえば、師父は私達を助けてくださいます。

 資料を配る過程でも多くの危険な出来事を経験します。ある時、同修がオートバイのブレーキをちゃんと修理するのを忘れ、カーブのきつい傾斜の急な坂を下りる時に思い出し、大声で「いけない、後輪はブレーキが利きません」と言いました。オートバイは急速に下に向かって飛ぶように走り、はただ呆然となって見ているしかできず、心は空中にぶら下がっているかのようでした。そして師父が私たちを保護してくださり、次の瞬間に、オートバイは小さな木の幹に引っかかり、崖の下まで飛んでいかずにすみました。そうでなければ数メートルの高い崖の上で、私と同修はオートバイを引っ張り上げる方法がありませんでした。私の片足がオートバイの下になり、体は山側にっかかっており、そして同修も飛んで行ってしまい、崖の下の田んぼの中にぶら下がっていましたが、2人ともみな無事で間一髪で助かりました。

 山間部は辺鄙なので、車で入る時は人の注意を引き付け、私たちは何度も人に尾行され、周囲を取り囲まれました。少なくとも1人か2人の攻撃を受け、多い時には二十数人で、さらには車の中の物をひっくり返されそうになりましたが、みな師父のご加持の下で知恵を発揮し、衆生を良く遇し、困難を排除して乗り越えて来ました。

 同修の信用によって、私は地元の協調の仕事を請け負いました。2015年の江沢民告訴の大潮流で、大法が中傷され、大法弟子が残酷な迫害を受けたことを訴えるこのような機会がついに訪れました。地元で私は先頭に立って江沢民を告訴し、さらに配達証明書を受け取りました。私は地元の同修と切磋琢磨し、交流し、皆を励ましていつも行動を起こし、地域の同修の責任によって集められる江沢民を告訴するための事実や証拠、個人および家庭にもたらされた損失などのすべての資料、技術がわかる同修の責任による植字、規範に合うような成文などを、再び当事者に戻し、本人自身によって郵送されました。地元の江沢民告訴率は99パーセントに達し、さらに江沢民告訴によって不当に連行される出来事の発生は、ただの一例も現れませんでした。

 師父が20年間にわたり法を正され、人を救うすべてのプロジェクトはみな人々に真相を伝え、法を正すことは現在(訳注:2019年)すでに大詰めを迎えています。すでにすべての衆生が態度を表明し、その位置を決める時になり、私も面と向かって真相を伝えることを主要なプロジェクトにしています。私たちの県は大きくはないのですが、多くの年配の同修は皆が午前中に学法し、午後からは街で真相を伝え、さらに私たちのように若くてオートバイ持っている者は、地方の農村に行って真相を伝えることをしており、効果もとてもいいのです。

 2019年5月のある日、私は同修と私が住んでいる地域に近くて境を接する地方の山間地帯のメインストリートに行って真相を伝えました。真相を伝え終わるとさらに資料を配っていましたが、通りかかった村長に見られ、通報されました。そして私たちは2台のパトカーに取り囲まれ、山間地帯の地元の警察署に不当に連行され、警官はオートバイの中の資料を探し出し、私の身分証を捜査し、私のいくつかの情報がインターネットで明らかになりました。私たちは何も協力せず、警官たちは強制的に私の髪の毛をつかみ、靴ひもをほどき「実刑判決を下されるだろう」と脅しました。

 その後、2人の警官が私と話をし、その内の1人がその地区の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の隊長であることが後でわかりました。私は「私たちの間には迫害し、迫害されるという関係はなく、救い済度し、救い済度されるという関係にある」と思いました。師父のご加持の下、私の気持ちは特別に和やかで、ずっと良好な話し方と話す速度を保ち、隊長に礼儀正しく真相を伝えました。すると、隊長は恐れて心が動き、私が真相を伝えるのを何度も中断しました。私は心を動かさず、引き続き話の主導権を握りました。隊長は私の態度に心を突き動かされ、まじめに聞いてくれるようになりました。

 私は「私たちはテレビで宣伝されているようなものでは全くなく、私も教養のある人間です。法輪功に対しても多くの人が学んでいるから学んだのではありません。自分の信仰は、自分に対して責任をとるべきで、その信仰がどういうものなのかをはっきりさせなければなりません」と言いました。私も天安門の偽り焼身自殺事件からはじまり、大法が病気治療と健康保持に効果があり、心身ともに健康になることまで伝えました。また、佛教の中で予言されている優曇華の花が咲く時には、どのようになるかまでを伝えました。さらに、中国共産党の政治運動はみな冤罪であり、法輪功も例外ではなく、私たち中国人は善良で、たとえ中国共産党政府が白を黒と言ったとしても、物事はいつも後になってから歴史の上でわかるのだ、ということまで伝えました。私は隊長に解放してくれるようにお願いし、隊長に「修煉者を保護することは功徳が非常に大きく、私は社会と個人に対して、損害や損失をもたらしたことはなく、罪はありません」と伝えました。隊長は心を打ち明けて笑い、「やれやれ、あなたはさすがに本を読んでいらっしゃる、話が理にかなっている」と言いました。隊長はいくらか失言したことに気づき、言い直して「私が言ったのはあなたの話はレベルが高いということです」と言いました。私は「ただいくつかの真実と事実と道理を伝えただけです」と言いました。

 隊長たちは帰って行きました。私は同修と切り離されました。私は一人で部屋に座り、心を静めた時、頭の中にときどき雑念とマイナス思考が出てくることがあり、私の何かを判決しているようでした。私は「それは旧勢力が私に向けて強化した思惟であり、法を得た一面がどうしてこのような考えを持つことがあろうか?」と自分に伝えました。私はすぐに取り除き、排斥し、こうしてマイナス思考が湧き出てきたら、私はいつでも排斥して正し、マイナス思考に従って考えることはせず、師父が按排してくださった道を歩みました。師父は「しかし、いずれにせよ、師父は旧勢力を認めていません。皆さんも認めないでください。正々堂々と良く行い、それらを否定し、正念を十分にするようにしてください。私は李洪志の弟子であり、他の按排は要らない、認めないと思えば、それらは恐れ怯えて手を下すことはできず、何でも解決することができます。あなたが本当にこれをやり遂げることができれば、口先で言うだけではなく、行動においてこれをやり遂げることが出来れば、師父は必ずあなたを支持します」[5] と説かれました。

 その後、国内安全保衛部門の隊長は2人の人間を連れて私に会いに入って来ました。2人の人間がどこの部門であるかを私は友好的に尋ね、「『610弁公室』の人ですか?」と尋ねました。2人の人間は「ほとんど変わりません」とだけ言って、直接には答えませんでした。その後「法律を破壊し、何を実施するのですか」と言い始めました。私は「あなた達はまだ知らないようですが、すべて無実の罪であり、どの法律が破壊されて実施できないのですか? 国家主席はみな打倒され、刑務所で無実の罪が晴れずに死んでしまうことがあり、法輪功も同じです」と言いました。国内安全保衛部門の隊長は大笑いし、私をおだて上げました。私も少し真相を伝え、2人の人間はそれを聞いて黙認を表し、出て行きました。後の時間、私は正念を発し、中国共産党による私への妨害と迫害を解体しました。

 夜、警官は私たちを留置場へ連れて行きました。血圧を測ると、血圧は血圧計が振り切れてしまい測定不可能になり、何度測ってもいつも同じでした。これもまた、慈悲深い師父が私のために、この虚像を演化してくださったのだ、と私にはわかりました。留置場の登記担当者は「大病院に行って証明書を発行してもらう必要があります」と言いました。そこで私は再び病院に連れて行かれて測定し、血圧はやはり血圧計が振り切れてしまって測定できず、病院が証明書を発行しました。私はその時、自分は戻るべきなのだろうと思い正念を発するのを緩め、留置場に着くと、登記担当者は再び「さらに心臓病の証明書もなければなりません」と言いました。警官たちは再び私を病院に連れだして心臓を検査し、不思議だったのは、心臓にも重い病業の虚像が現れたことでした。病院は証明を発行しました。再び留置場に戻る路上で、私は「再び正念を緩めることはできず、続けて間断なく正念を発し、この迫害を解体する」と思いました。留置場に着き、登記担当者は「上司が来てから決定してもらわなければなりません」と言いました。

 ある警官が私に「これはあなたが作り出したかのようだ」と言いました。私は「これは私が強大な正念を発して、徹底的に邪悪を解体しなければならないということだ」と悟りました。私は目を軽く閉じ、心を静めて強大な正念を発し、師父にご加持を求めました。その瞬間、師父が紅オレンジ色の袈裟をお召しになっているのが私に見え、留置場の空中にお立ちになり、大蓮華手印の二つの動作をされました。師父が私のために困難を排除してくださったのだ、と私にはわかりました。2分後、登記担当者は「帰ってください」と言いました。帰りの路上で、警官は私に「今回あなたは本来ならば刑罰を下されるところです。しかし、我々は上に報告せず、寛大な処置をとりました」と言いました。

 私は心の中で深い感銘を受けました。師父は「あなたが劫難に遭遇したとき、その慈悲心がこの難関を乗り越えるのに力を貸してくれますし、同時にわたしの法身もあなたを見守り、あなたの生命を守ってあげますが、難は必ず通らなければなりません」[6] 「もちろん、皆さんは何と言っても予め誓約を立てた大法弟子であり、皆さんの生命は大法とともに存在するのです。これほど大きな法があり、正念の中で大法が皆さんとともにあり、これは絶大な保障です」[7] と説かれました。

 家に帰った後、落ち着いてから私は回想してみると、今回の迫害の原因は私の母親に対する情が重すぎたことによるものでした。母親は1999年に修煉を始め、2017年に病業の状態が出現し、体に半身不随の脳血栓の症状が現れました。母親が関を乗り越えるために私は正念を発しました。母親はいつも虚像を重く見て、明慧ネットで発表された病業を乗り越えることに関する文章を母親に読ませました。母親は聞いたらそこまでにしてしまい、自分に照らし合わせることをせず、その場限りでお茶を濁し、主意識が強くありませんでした。私はいらいらを表し、鉄が鋼にならないのを悔やみ、完全に情の中に陥りました。母親の状態に動かされ、母親を同修として扱わず、法の自分に対する要求から逸脱し、旧勢力にスキを突かれ迫害されました。母親の状態、母親の態度にはみな私が修煉し、向上しなければならない要素が存在しており、真の修煉者の境地を以って、母親を助けることも、私の責任と使命です。

 師父に従って法を正す修煉をした、この20年間の経歴を振り返り、多くのことを感じました。弟子は師父の慈悲なる済度に限りない感謝の気持ちを持ち、弟子はたださらに精進し、誓約を実現し、師父の慈悲深い済度の恩に報います!!

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

(完)

 注:
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「善を見る」
 [5] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [6] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」
 [7] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」

 (明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/10/395570.html)
 
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