文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年12月5日】忍耐力は人間のある種の特性です。修煉者にとって、忍耐力の強さは私達が最終的に修め遂げる果位と大きく関連してきます。絶えず精進して修煉して行くうちに、私達の忍耐力も高まっていきます。次では三つの側面から、個人的な理解を述べさせていただきたいと思います。
一つ目は、肉体的な忍耐力についてですが、一部の同修は迫害を受けた時、体に加えられた苦痛に耐えられず、間違ったことをしてしまいました。出所してから、自分には忍耐力が足りないと思って、それを高めようとしました。実は、このような考え方には迫害を認める意味合いがあるので、それを改めなければなりません。私達は正法を修めていますので、迫害を受けるべきではありません。つまり、体の忍耐力が高まって行くのは、私達が法に則って行なっていますので、邪悪が私達に近づくことが出来なくなったからです。
二つ目は、精神的な忍耐力についてですが、人に罵られた時、自分の名誉や利益が損なわれた時、私達はそれに耐えられるかどうかのことです。
三つ目は、名、利、情の誘惑に対する忍耐力についてですが、これは見落とされがちですが、極めて重要な事です。誘惑の背後に必ず良くないものが隠れています。魚釣りの餌に釣り針が隠れているのと同じです。しかし、私達はしばしばそれを見抜けず、あるいは知っていながらも我慢できず、過ちを犯してしまいます。
数年前に見たある映画のワンシーンを今でもはっきりと覚えています。ある人が人に賄賂を贈ろうとしましたが、断られました。その人は「人間は一定の金額に抵抗力があったとしても、ある金額を超えると必ず負ける。それは鉄が融点に達したら必ず溶解するのと同じである」と言って、さらに莫大な金を出しました。しかし、結局は拒否されました。賄賂を拒否した人は立派でした。彼は「自分がもしその誘惑に負けてしまえば、目先の利益を手に入れたとしても、最終的にはいい結果につながらない」と言いました。
お金の事だけではなく、他の事も同じです。常人は誘惑に耐えられれば、災いを避けられ、徳を積み、福報を得られます。一方、修煉者の場合は誘惑に耐えることが出来れば、それは次元の向上となります。天目が開いたまま修める人も、閉じられたままで修める人も、誰でも誘惑の試練を試されることでしょう。
一方、忍耐力がある水準に到達する時、私達は常人のすべてに魅力を感じなくなることでしょう。それは人間がアリのいかなるものにも魅力を感じないのと同じです。そして、心性の向上や業力の軽減等により、個人修煉の視点から言えば、常人の中の悪い事は私達から遠ざかって行き、私達の周りはより純粋できれいになるのです。