明慧法会|明慧で長年仕事をした修煉体験
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文/ヨーロッパの大法弟子

 【明慧日本2019年8月20日】明慧で長年仕事をした過程は、根本的な執着を除去し、忍耐力を修煉し、日一日と衆生を救い済度し続けた過程でした。

 私は2001年に法輪大法を修煉し始めました。数年後、私は明慧で文章の校正を始めました。その数年間、私はまた他の仕事も請け負い、たとえば組織の仕事や編集の仕事、原稿執筆、原稿審査および文章の撮影です。

 明慧の必要性を個人の趣味と同等レベルに並べる

 文章の校正を始めたばかりの時、大きな執着の挑戦に直面し、自分の意向によって自分の明慧での仕事を決定したいと思いました。協調人が電話で私に「数日が過ぎましたが、なぜ長い原稿をきちんと校正してから送り返すことができないのですか?」と尋ねました。この質問に対する執着心が現れてきました。協調人は、私が担当した文章の校正がどのような状態なのか、と礼儀正しく私に尋ね「ホームページにあの文章が必要です」と明確に私に伝えました。そして私はいろいろな言い訳を探して協調人に説明することができ、そして、なぜその文章の校正がまだ終わっていないのかを説明することができました。

 時に私は頭にくることがあり、なぜなら、いろいろかかってくる電話を圧力とみなし、このような圧力から逃れたいからです。ノルマをこなすために、私は毎日文章を校正しなければならず、さらにそのための心の準備がしっかりとできていませんでした。さらに私は「毎日このような仕事を行なうことは不可能だ」と思いました。その他にも、私はその時毎日パソコンの前で数時間仕事をしたくありませんでした。私が圧力を受けて頭に来た原因は「何時間パソコンの前に座り、何時間仕事するかは、私が自分で決定したい」ということにありました。仕事の速度と努力の程度を自分で決定したいと思い、さらにその自分の決定を他の人によって厳しくされたくないのです。

 その時、私はまだ理解できず、このようないわゆる自分で決定する意向の背後に、どれだけの私心が隠れているのかを理解できませんでした。私は「私の生活状態(仕事と家庭と家事)および私の必要性によってのみ、私がいつ明慧のために努力を費やし、何をしどれだけ行なうのかを決定できるのだ」とただ固執して考えていました。明慧の必要性によって、私の時間をいかに配分するのかを決定することに、私は反対しました。

 さらなる責任により、突然の間にすべてが変わった

 私がさらなる責任と協調の任務を請け負った時、状況はすぐに変わりました。その時から、私は毎日明慧のために仕事をし、移動中であろうが、神韻期間中であろうが、仕事が忙しかろうが、あるいはクリスマスで家に客が来ていようが、その他毎日仕事をしました。新しい任務の前で、すぐに自分を向上させ、自己を「洗浄」しなければならず、またさまざまな執着から抜け出さなければなりませんでした。

 仕事の流れを総合的に見ることが自分を洗浄する助けになりました。どこにどれだけの支持が必要で、どこに人が欠けているのかを見て取ることができました。まさに同修たちの努力の費やしによって、はじめて明慧が使命を達成できるのだ、ということも見て取れました。毎日の法を正す状態をすぐに反映させ、迫害を暴露し、最も正しい修煉環境をみんなに提供しています。

 私が行なうすべてと行なうことができないすべてが、ホームページとその他の仕事をしている同修が受ける影響となる、ということも私は知っています。通常私たちはこの影響を見ることができず、なぜならこの人の世の中で、私たちの視線は大きな制限を受けているからで、さらに私たちが行なうことにより起きている他の空間での作用を見ることができないからです。

 翻訳と校正グループを協調する仕事の中で、もし、私がしっかり行なわないか、あるいは一つの仕事を達成できないと、漏れを形成することがある、ということも私は見て取れます。そうでなければ、他の同修が私の仕事を補おうと試みなければならず、そしてこれはまた、その同修に予想以上の負担をもたらし、大きな負荷を追うため、その同修自身の仕事を完成できないか、あるいはしっかりと完成できなくなる可能性があります。

 以前は、もし私と家族が外出して2週間観光に行き、さらにその期間中、明慧の仕事を行なわなければ、どのような漏れを引き起こすのか、ということにまったく気づきませんでした。

 私たちがこのプロジェクトにいったん参加すれば、明慧の中で一つの座る場所を占有するのだ、ということを私はついに理解しました。この時から、私たちは自由気ままにダラダラと仕事ができなくなり、明慧の翻訳であろうが、校正であろうが、あるいは他の仕事を請け負おうが皆同じでした。

 この認識は私にとって、独断的な執着を一層一層取り除く助けとなりました。明慧の必要性を個人の必要性として置くことは、私が正確な方向に歩むということであり、重要な無私の一歩を修煉するということです。

 師父は「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[1] と説かれました。

 無私の一歩を修煉し始めた時から、外出して観光していようが、同修と一緒に活動に参加していようが、あるいは修煉していない夫と旅行していようが、私はノートとパソコンを持ち歩くようにしています。

 私のゆるぎなさが 試練を受ける

 この数年の中で、無私の修煉に対する私のゆるぎなさの程度が、何度も何度も試されました。まだ足りないと認識することができ、私たちはさらに「足りない」という認識をふまえて行動しなければならず、そうでなければやはり修煉とは言えません。たとえば数年来、私は夏に家族と一緒に観光に行き、さらにキャンプをしています。時にはキャンプ場ではコンセントもWIFIもまったくありません。はっきりと覚えているのですが、ある夏、電源コンセントとWIFIを確保するためにどのようにしたかというと、キャンプ場と大自然から遠く離れた簡易倉庫で私は過ごしました。

 文章を送れるようにするために、私はWIFIを提供している最も近くのコーヒーショップに自転車で行かなければなりません。あるいは他の人が熟睡している間に、しっかりと服を着こみ、キャンプ場が提供する隙間風の吹く部屋で、パソコンで仕事をしました。私の夫は、観光中でさえも、校正の仕事を放下しない、と批判します。「誰もおまえの仕事を管理できないんじゃないのかい?」。夫はいつもこれと同じような質問をいつも尋ねます。またクリスマス期間中、私たちの家で客たちと一緒にお祝いする準備をするために、いつも多くのことをしなければなりません。例えそうであっても、クリスマスや他の休日の準備の仕事をする前にも、まず明慧の仕事を完成させる必要があります。

 このような状況下では、いつもそんなに容易ではなく、実は全く容易ではありません。しかし、私はいつもこの容易ではないことを私のゆるぎなさと理解の程度に対する試練とし、これは私にとって大きな助けです。私たちは常人に向けて、はっきり説明する方法がありません。私たちが大法弟子として観光中に明慧の仕事に応対することは、常人が普通の仕事に応対することとは違います。他の人が私自身を代替できない、と思っているわけではありません。私はただ「私が行なうことと行なわないことのすべては、一定の影響を生み出すことがある」と認識しています。もちろん、私はただ全体の物事の中の微小な一部分が見えるだけにすぎません。

 無私の境地に到達したこの過程は一歩一歩の過程です。私は自分が突破しなければならない幾つかの低い次元に何度もぶつかります。たとえ現在であれ、明慧のために何年も仕事した後であれ、低い次元が私の私心をコントロールしようと試みるのを、また私は何度も感じています。たとえば主な責任者が格別な任務を私に按排し、この時、私はいつもやはり一定の「修煉の時間」が必要で、そうでなければ、とても受けられません。責任者が按排した任務を私が引き受けるのを阻止する考えと雑念から、往々にして私心が出ており、その私心は旧勢力の核心です。

 そしてこのような「私が」の考え方は、実際にはまったく法に則っていません。考え方が法に則っていなければ、旧勢力の按排に符合してしまいます。

 学法と協力

 師父は「実は、自分自身にある正しくないすべての要素も含めて、すべて大法と大法弟子の正念と一致していないものはいずれも、旧勢力の関与によってもたらされたことです」[2] と説かれました。

 そして唯一旧勢力の按排を突破できるのは、精力を集中して学法することで、私たちの考えと念を法に則って絶えず検証し、さらに旧勢力の按排を正します。正念を用いて法に符合しないあらゆるすべてを認識し、旧勢力の按排がもともとの私であると認めず、さらに旧勢力の按排を解体します。

 そして協力が起こす有効的な作用に対して、学法が、そして師父もまた一度私に直接体験させました。

 その時、ある女性同修に対する多くの不平が私の頭の中でぐるぐる回っていました。その女性同修は神韻の協調の仕事を請け負ったために明慧の仕事を停止し、私たちのグループの同修2人はその女性同修がやらなくなった後、単独では2人が行なっていた明慧の仕事を完成させることができず、こうして明慧ニュース速報は休刊になりました。数人の主な協調人が会議を開き、明慧ニュース速報の重要性と必要性について話をし、私たちが新しくこの速報を作らなければなりませんでした。

 心の中では、私は極めて不承不承で、改めてそのグループの一員になりました。2年経った後でも、私はまだ心の中で、その年に決定されたことについて、その女性同修をとがめていました。

 そのような状況下で、私は『轉法輪』を手に取って学法を開始し、何の目的も持たずに30分以上学びました。学法する時、私に新しい悟りはありませんでしたが、学び終え『轉法輪』の本を置き、さらにニュース速報と先ほど話したその女性同修のことを考えた時、私の考えは大きく変化しました。私はとても平静になり、怒りを抱かずにこの問題を考慮し、さらにその女性同修のことを考えました。私のその女性同修に対する恨みは跡形もなく消え、私の視野は突然開き、その女性同修の当時の窮地、およびその女性同修がさまざまな要求に配慮するために行なった努力を理解しました。

 師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[3] と説かれました。

 私にとって、これは初めての特別な経験です。なぜなら私の状態は学法前はあんなにもはっきりと、心が重苦しく、憤懣やるかたなく、不満がきわめて多かったからです・・・。しかし現在、わずか1時間後には、私の考えには大変革が起きていました。『轉法輪』の積極的に円融する力はなんとすごいのでしょう! この体験を私に与えてくださった師父に私は心の底から感謝申し上げました! それ以降、私は再び明慧ニュース速報の仕事をやりたくなりました。

 私たちが心からさらに協力するために、何が助けてくれるのか?

 私は「私たちは昨年から毎朝集団学法を開始し、私たちが明慧の仕事をする同修のために正念を強めるのを助け、私たちは直接参加しなかったとしても、この学法グループの設立を知っているのだ」と思いました。同修がエネルギーを発することはまた、私たちに対して正の面での作用を働きます。明慧の中で私たちは緊密に関係しています。今まで私たちの中でただ一部の人だけが集団学法を開始しましたが、これはグループの中の他の人にも積極的な影響を与えました。まさに私たちの中にいるある女性同修が、女性同修自身は朝の学法に参加しませんでしたが、しかし、ただグループ内の一部の同修たちがちょうどこの時間学法しているのだと知り、女性同修が起床して煉功する助けとなる、と言いました。そして「もしグループ内のさらに多くの同修が参加したら、それならどうなるでしょうか?」と言いました。

 校正すること

 この問題について、私たちはみな自分の経験があり、この方面において修めて執着心を取り除かなければなりません。時には、この点においてまだ圧力がありますが、私についていえば、すでに修めて多くを取り除きました。

 この問題において、私にとってとりわけ大きな助けとなり、それは読者の身になって考える心です。文章を扱うすべての同修は、その原稿の成功のために貢献します。校正担当の同修が翻訳文章をまったく新しく書き換えたように見えたとしても、元の原稿がなければその行為は行なえません。さらに、最終の原稿審査も校正者の原稿の上に成り立ちます。

 私たちのホームページがトップページの前置きを導入して以来、私もいつも校正と原稿審査を担当する同修が書いた、非常に啓発性のある前置きを読み、特に校正者は手間取りながらもまじめに前置きを書きました。

 謙虚さ

 文章を直している過程で、私は慎重さをマスターしました。以前、私はいつも「正書法に関して、私は他の人より良く知っており、自分の文章にはニュアンスも含まれている」などと思っていました。私はそこでいろいろな文章を校正し、フィードバックしています。しかし、たとえ正書法の面だけであったとしても、私たちが考慮しなければならない異なる角度もあるかもしれません。文章を校正し、フィードバックしている間「私の関連知識には実際やはり限りがある」ということがわかりました。

 明慧ネットで、毎日師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する

 私の理解によれば、私たちが明慧ネットのために行なうすべての事は、師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度するためです。明慧のために仕事をし、私は毎日衆生を救い済度することを手伝うことができます。仕事と家庭の理由のために、時には夜遅くあるいは早朝の時間しか行なえず、あるいは昼休みにしか時間がなく、私はそれでも毎日自分の使命を実行しています。明慧の他に、どのプロジェクトでもやはり行なうことができるでしょうか? ある同修たちは週末にインフォメーションデーに参加し、あるいは、いくつかの縁をつたって政治家に手紙を書きますが、他の日はどうなのでしょうか?

 明慧ネットには3種類の読者群があります。(1)常人、たとえば政治家や人権組織、記者および興味を持った人。(2)同修。(3)中国共産党のために何かを行なう人。

 すべてのすばらしい文章は、衆生を救い済度することができます。私たちの分析、文献資料あるいは迫害された個人の体験を通じて、ある政治家が迫害のレベルを理解する時、その政治家は救い済度されます。そして、私たちが活動に関して、報道する新聞によって読者が私たちの初志を理解する時、それならばその新聞は読者を大法に近づけます。

 すべてのすばらしい修煉体験は、修煉者が自己を向上させる助けになることがあります。向上がその修煉者のすべての世界、およびその世界にいる衆生が救い済度されることでないとしたら何なのでしょうか? 向上が修煉者のすべての世界、およびその世界にいる衆生が救い済度されることでないとするならば、衆生は優秀なすべての修煉体験によって、救われないことがあるのではないでしょうか?

 そして私たちの責任は、さまざまな文章に衆生を救う作用を起こすことができるようにし、併せてそのさまざまな文章を発表することです。もし文章が法理に対する認識にかけており、内容が不完全で、表現方法も機械的で、欠陥があり、正書法の誤りも存在したりするのであれば、それらの文章は読者を怒らせるか、読者を断ち切ることになり、さらに、読者たちは妨害を受け読まなくなります。

 文章を掲載するまでの間に、どうすれば初めて文章の質を高めることができるのか、私たちはやはり他のプロジェクトの同修の支持を受けました。私は「自分をしっかり修める以外に、もし私たちが専門レベルを高めることの重要性を明確にできれば、同修が私たちのために提供する専門研修を、さらにもっと大切にするだろう」と思います。

 ここで師父に感謝申し上げ、同修の皆さんに感謝申し上げます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [2] 李洪志師父の経文:「波紋を呼んだ副元神に関する文章について」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 (明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/1/387659.html)
 
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