依存心について考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年8月23日】依存心には幾つかの起因があると考えました。怠惰から生まれた依存心、様々な情を享受することによって生まれた依存心、困難の状況に差し伸べられて来た援助の手に対する依存心、そして、修煉者の場合、師父と大法に対する依存心があると思いました。

 依存する目標の存在が感じない時、人はどうすればいいのか分からないと言う不安に陥りがちです。しかし、それは情が人に与えた状態であると、見落とされていませんか? 常人は情から生まれた様々な感覚の中に生きており、情も人に様々な感覚を与えているので、修煉者として、それらをはっきりと認識し、その情を放下しなければなりません。

 師父は「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです」 [1] と説かれました。

 また、師父は「大法弟子は情に理性的に対処しているだけで、情に影響されないのは不可能なことです。皆さんは理性をもって対処しているだけです。修煉してできた部分だけが情の影響から抜け出せるのです」 [2] とも説かれました。

 人は何をしてもすべて情からスタートします。実は、多くの人が修煉を始めたのも情からの選択でした。多くの人は多くの場合、修煉の中で次第に情が表した様々な状態をはっきり認識することが出来るようになり、そのため、様々な執着を修め、問題を理性的に対処することが出来ました。しかし、多くの人は多くの場合、それをまだまだやり遂げていません。

 私の場合、大法と師父に対する依存心をトラブルに遭った時、法に照らし合わせた正念だと勘違いしました。表面上では、それが正念のように見えますが、しっかり考えて見れば、それが依存心で、情から派生したものだと分かりました。その表しとして、トラブルが解決されなければ、心の中は不安となり、頭の中から様々なネガティブな考えが出て来て、最悪の場合、大法と師父に対する疑いの気持ちすら出て来ました。最初の頃、これらの考えがどこから出て来たかが分からず、発正念をしても完全に取り除くことが出来ませんでした。いま考えれば、それは依存心が満たされていない時に現れた不安で、その依存心が不安を感じているのだと分かりました。なのに、それを自分が不安を感じていると勘違いしました。その結果、無意識的に依存心を認め、それを守ってしまいました。

 絶え間なく修煉することによって、執着を取り除く過程が情を放下する過程である、とますます理解できるようになりました。多くの執着心を放下するに連れて、情と言うものもますます薄くなり、その過程はまさしく人間が神に向かう過程でした。

 いまの乱世の中、旧勢力は邪悪の情魔を利用して人を壊そうとしていて、同時に、旧宇宙の潰れかけた相生相克の理を利用して、大法弟子に試練を与えています。修煉者として、くれぐれも情の多様性に注意しましょう。時には、その現れがとても微妙で、内に向けて探さなければ、なかなか見つかりにくいものです。

 個人的な悟りで、法に則っていない所があれば、同修からのご叱正をよろしくお願いします。師父に感謝いたします! 同修達に感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:「二〇一八年ワシントンDCでの説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/7/23/390363.html)
 
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