相手のため「焦っている」と思うことは慈悲ではない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年3月2日】仲の良い同修間で、あるいは家族も修煉者の場合はある現象が起こります。それは、相手が執着心を長い間取り除いていない場合に、自分も焦ってしまいます。いつも「あなたは執着心をまだ取り除いておらず、私はいつも心配しています」とそのような言い方をします。親しい同修や家族の間においては、話の中に「情」というものが入り込みやすいのです。表面から見ると同修のためのようですが、実はその裏には「情」があります。私たちの「慈悲心」から話しているのではなく、いくら相手のことを思っていても、それではさほど効果がありません。

 私たちは修煉者なので、身の周りに起きたことは自分の心性と関わりがあると思います。よく考えてみてください。私たちはどうして相手の短所に目を向けたのですか? どうして自分の空間場で相手の不正な状態や、法に基づいていない言動を抑えられないのでしょうか? 相手の短所を見つけたとき、自分にも同じような執着心があるかどうかを、まず 内に向けて探すことができれば、必ず自分を修めることができるはずです。

 人の執着心がすごく気になったときは、それも執着なのです。このまま行けば一種の観念に変わり、自分と相手の障害物となり、ひいては執着心となります。私たちが相手の短所を指摘するときに相手が受け入れない場合、恨みなどの人心を生じてはいけません。

 個人的な悟りですが、修煉が熟しているかどうか、家族や親しい人の前で憚(はばか・差し障りをおぼえてためらう。遠慮する)るところがないとき、自分の本当の行いが現れます。このような機会を利用して自分を修めることができるかどうか、それは自分の修煉に対して責任が持てるかどうかの問題なのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/10/360605.html)
 
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