香港の同修達の行動から思い付いたこと
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月3日】同修が香港旅行から帰って来たとき、私はすぐに「香港の環境はどうですか?」と聞きました。同修は「道の片側に静かに立っているのは香港の同修達で、通行人が通りかかると、彼らに真相を伝え、資料を配り、とても優しくて平和的な雰囲気でした。静かに発正念をする人もいました。その反対側に悪質なグループが構えていて、彼らは師父を誹謗するパネルを挙げ、大音量で放送し、『文革』当時のように喧しく、嫌な気分でした」と言いました。私は「香港の同修は実におとなしいですね。なんとかなりませんか? 邪悪を一掃して、妨害する人達が悪報に遭うよう発正念をするとか、彼らの拠点を撤退させるとか、なんとか方法はありませんか? 何年も経っているのに、香港の様子は全く変わっていないじゃありませんか?」と言いました。

 同修と交流している中に、自分の考え方が間違っていたと意識しました。そして、自分の頭には党文化の要素が多すぎて、やはり「毒を以って毒を制す」と言う共産党の手法から脱却せず、善の心と慈悲心がなく、心性と境地は香港の同修との開きが大きいことに気づきました。

 以前、私はよく思いました。「師父は説法の中で、よく香港の同修が良く行なっていると肯定されていましたが、しかし、私はその良さが分かりません。香港は中国国内と状況が違って、悪い警官や刑務所もなく、数人のチンピラをどうしてなんとか出来ないのでしょうか? もし、私がそこに行けば、とっくにさっさと問題を解決したでしょう」

 同修と交流する中、自分の闘争心、負けず嫌い、威張り、好戦的で、独りよがりなどたくさんの人心を見つけました。このような人心は香港の同修達にあるでしょうか? 少なくとも、彼らの全体的な状態は人に感心されるのではないでしょうか。あのような環境の中で、平和で慈悲な心で人を救い済度する姿は、中国国内の人達の党文化の振る舞いと対照的で、それこそ人格の高さの現れではないでしょうか。

 魔は悪を恐れず、善を恐れるのです。善であればあるほど、魔は恐れるのです。師父は「佛は善であり、これは間違いのないことです。しかし、そのような慈悲は一種の偉大な佛法の力量の現れです。いくら良くないもの、悪いものであっても、鋼鉄のようなものでも佛法の慈悲の威力の前では溶けてしまいます」[1]と説かれました。私達が目にしたのは、香港における邪悪の表面での現れで、別の空間での状況がどれほど複雑なのか私たちには分かりません。中国国内と同じように、香港の同修達には彼らが直面して、突破しなければならない難関があります。それは香港の同修達が威徳を成就する環境です。凶暴に振る舞う邪悪の前で、善と慈悲をもって真相を伝え、人を救い、純粋な心を持って発正念をすることは、一定の修煉の基礎と精神境地がなければやり遂げることは出来ません。あのような環境の中で自らを鍛え、自らを高め、人心と衝突し、自らの観念を変えていく修煉の過程は、中国国内と全く変わりません。師父は「法を正すことは必ず成功し、大法弟子も必ず成功します」[2]と、法を正す結果を示してくださいました。それなら、私たちは一歩一歩すべての事をしっかり行い、大法の基準を満たし、大きな慈悲心を修め遂げ、闘争心と怨恨心を取り除き、『九評』のように、平和の中で中国共産党を解体していかなければなりません。

 香港は中国国内の人々にとっては特別の場所です。香港に行くのは未来を選択する機会でもあります。香港に旅行に行く一部の人は、ガイドに「法輪功の資料を受け取るな。税関に押収されても知らないぞ」と脅されると、怖くて真相も聞けず、真相資料ももらえなくなりました。しかし、勇気を持って真相を聞き、資料を受け取る人もいます。同修も同じです。一部の同修は香港に行っても、香港の同修と接することを恐れ、面倒なことに遭いたくないと言いました。しかし、一部の同修は香港の同修と盛んに交流し、パレードがあれば、それに参加し、横断幕を挙げて行進する人もいました。どこにいても、試練は同じです。

 私の最も大きな問題(周りの多くの同修もそうですが)は、香港の同修のような大きな善と慈悲心に欠けていることです。香港の同修達は黙々として、控え目で、穏やかに真相を伝え、正念を発する中で、山を押しのける勢いで他の空間の邪悪を一掃しているのです。

 邪悪は何を恐れているのでしょうか? 善を一番恐れているのではないでしょうか。ある同修は次のように話しました。「同修は警官に派出所に呼び出されました。最初の時、同修は闘争心を持って、警官に真相を伝えようとしました。しかし、口を開くと、警官は『黙れ! お前を拘禁すると言うなら今すぐお前を拘禁するぞ』と叫びました。同修はすぐに自分の強い闘争心に気づき、心を落ち着かせ、再び警官に真相を伝え、自分が煉功してから病気が治り、性格も優しくなり、職場の誰でも大法に敬服した話をしました。すると、警官は怒らず、最後に彼にいわゆる『三書』も書かせないで、『もう帰っていいよ』と言いました。門を出た時、警官は『実は、あなた達をとても尊敬している』と言ってくれました。その後、同修は『強さだけでは人を救えない。善があって、はじめて衆生を救える』と感慨して言いました」

 またある同修は公安局に行って警官に真相を伝えました。警官は態度を一変させて、「お前はよくここまで来る勇気があったね。お前を今すぐ連行するぞ。信じないか?」と怒鳴りました。同修は「それは信じます。しかし、あなたはそうしないでしょう」と言うと、警官は「なぜだ?」と聞き返しました。同修は「あなたは悪人ではない。あなたは優しい心を持っているから、私はここに来たのです」と言いました。それを聞いた警官の態度は直ちに変わりました。

 私達の善の心が大きいほど、大法の要求に合致して、邪悪を解体する力が大きくなるのです。人の背後の邪悪がなくなれば、人を救済しやすくなります。つまり、修煉の境地が高ければ高いほど、人を救う力が強くなります。

 少しの体得を以って同修達と交流したいと思いました。不適切な所があれば、同修達の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地で説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/15/359632.html)
 
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