【慶祝513】仙人が指し示した道
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文/江蘇省の大法弟子

 【明慧日本2020年6月11日】私は法輪大法を修煉して26年経ちました。青春時代に大法を得て、現在はもう50歳近くになりました。今日、誇りを持って感恩の気持ちで、私と私の家族が大法を得て、修煉する物語をお話します。

 家庭崩壊の寸前

 1992年末、定年近い母に突然乳癌が見つかり、すぐに手術が必要と医者に言われました。しかし、手術中トラブルが多く、何度も輸血しなければなりませんでした。さらに、手術後に脇の下にアヒルの卵大の血まめができ、抜糸した後も長い傷口の中央から6センチ程の部分から血が混じった体液が滲出してきました。医者からは長くても2、3年しか生きられないだろう、と言われました。

 母は1カ月以上入院し、旧正月の2日前に退院しました。 大手術後、母はとても弱っていて、よく風邪を引きました。また、手術した側の腕を上げることが出来ず、服を脱いだり、横になったり、起き上がったりするとき、誰かの手を借りないといけない状態になっていました。 その中でも一番ひどかったのは、傷口からの長期にわたる出血でした。抜糸した際に医者にそのことを尋ねたところ、「出血している部分の抜糸が、早すぎたからかもしれない。そのうち徐々に癒合します」と言われました。しかし数カ月過ぎても、傷口がふさがる気配もなく、薬を塗ってふさごうとしても、また、かさぶたが取れて血混じりの体液が出てくる状態でした。何度も病院に行って、消毒と薬を塗るしかありませんでした。医者もいい治療法がなく、私たち家族は絶望を感じながらも、母に付き添って病院と家を往復しました。

 母の病気を治すため、友人や親戚もいろいろな方法を探してくれました。 ある人は佛経を持って来て、ある人は聖書を買って来て、またある人は気功の学習教室を紹介してくれました。父はあちらこちらと厄除けしてくれる「高人」を探し、兄は薬を探し回り、私は病気が治せる気功師を家に呼んだりしました。その気功師はよく家に来て、母の治療をしてくれました。とにかく当時、母の命を救えるものなら、何でも試しました。母自身もその当時は、病気治療のために毎日明け暮れていました。朝は体育グランドに行って、腕を上げる必要がなかったので気功の練習をしたり、昼は病院に注射や薬をもらいに行ったり、あるいは例の気功師の治療を受けたり、暇な時は佛教の経典を読んだり、夜にもキリスト教の人が家に来て、母と一緒に聖書を読んだりしていました。一方、父は「高人」の指示で、母の寝室の壁に悪霊を追い払う絵を貼ったり、母の枕下に邪霊を追い払うナイフを置いたり、また黄色い布を貼ったりしていました。私たち家族は母の命を救うために、全力を尽くしました。

 一年近く努力して力を尽くしましたが、結局は何一つ奇跡は起こらず、私たちは一層絶望的になりました。母は依然として傷口からは血混じりの体液が出続け、衰弱した状態で回復の兆しが見えず、精神的にも限界でした。家に重苦しい空気が漂い、私たち家族は静かに母の死が近づいていると感じました。

 そんな状況の中で、家にもう一つの問題が起きました。弟は幼い頃、絵を描くのが好きで、小学生の時に、海外で作品が展示されるほどでした。しかし、可愛くてみんなに愛されていた弟がいつしか話す時にどもるようになってしまいました。最初家族は誰も気にしなかったのですが、ある日、授業中に弟がどもったことを先生は意図的にやったものと捉えられ、強く叩かれました。その頃から、弟はどもりを先生やクラスメイトに馬鹿にされたり、真似されたりしていじめに会いました。小心者の弟は家に帰っても、学校でのいじめを言い出せず、私たち家族がいじめのことを知ったのは、その随分後でした。

 10代の弟がそんなに辛い思いをしていたのに、家族として弟を助けることが出来なかった上、変わっていく弟を見て、何度も叱ってしまいました。

 弟が中学を卒業すると、学校にいられなくなり、母の会社に就職しました。しかし、仕事中でもどもってしまい、よくからかわれたり、冗談を言われたりしていました。それによって弟は人と話すとすぐに緊張してしまい、緊張すればするほど言葉が出なくなり、真っ赤な顔をして息苦しくなることも度々ありました。対面の仕事がある前日から緊張する弟の気持ちに共感し、慰めることも出来ませんでした。さまざまな治療院に通わせましたが、効果はありませんでした。内向的で正直な弟は「皆、自分の痛みがわからない」とよく私たち家族と喧嘩しました。

 長い間辛い思いをしてストレスも溜まり、弟は精神状態が崩壊する寸前で、怒り出すと、いつも自分の髪を引っ張っり壁にぶつけていました。 その頃から、弟は白髪だらけになり、短気で毎日不機嫌そうな顔をしていました。 周りから見ていると可哀そうで、笑われる恥ずかしい存在でした。

 「このままいくと、弟は精神病になってしまうのではないか」と私たち家族は心配しました。他人と話すことは弟にとって最大の苦痛となり、生きる力を失いました。苦しみに耐えながら仕事に行く弟を見て、家族はどうすることもできず、両親も悲しんでいました。また、弟をお寺に送ろうと思ったこともありました。それは信仰のためではなく、将来、お寺で暮らしていけるくらい生き延びてもらえればいい、という考えからでした。精神病院に行くよりは、出家する方がましだと思ったからです。

 弟は苦痛の中でも生き延びる方法を模索していました。90年代はちょうど気功ブームだったので、弟は自分を救ってくれる気功師を探しました。気功の雑誌や書籍の購入に給料の殆どを費やし、本の中で気になった気功師がいれば、すぐ探しに行きました。当時、家の経済状況がよくなかったため、弟には一番安い旅館の費用とバス代、饅頭を食べれる程度のお金しか与えられませんでした。そんな中で、四川省で長距離バスに乗っていたところ山賊に遭い、すべてのお金を奪われてしまったのです。山の中で立ち往生していたところ、奇跡的に森林の管理者が通りかかり、食べ物を恵んでもらったそうです。

 弟は自分を救ってくれる師父を探すために、多くの苦しみを味わいました。 毎回、「また、偽物だったよ」と言って、失望して戻って来ました。1993年、再び気功師を求めに出かけ、戻って来た弟は私に「本物の気功はチベットにあるはずだ」と言いました。 「本当にチベットに行くのかな? そこでも本物が見つからなかったら、弟はどうなるの?  まだ20歳にもなっていないのに、人生を歩みだす前から、お先真っ暗でどうするのよ?」と当時の私は悲しい気持ちいっぱいでした。

 私は読書が趣味で、物事を観察するのも考えるのも好きで、特に人生について疑問を抱いてました。「人はどこから来たのか、 死んだらどこへ行くのか? 人が生まれ成長して家庭を作り、年を取って病気になり死んで…生死を繰り返すのは何のためか? 」と思ったりしていました。ある日、数羽のニワトリが庭で食べものを探す姿を見ていたら、1匹の虫を争い始め、「人間も同じことをやっているではないか! 生き残るために争ったり、悩んたり、悲しんだり、無力感を味わったり、貧富も関係なく、人間は誰もそれらのことから逃れられない。多いか少ないかの違いだけだ。人の一生は素晴らしいものであろうと惨めなものであろうと、最終的に苦痛の中で死んでいくのだろう。人生とはそういうものだ。誰もそれを避けられないに違いない」と考えました。

 私たち家族は特に家族の情に執着していて、もしも、母に何かあったら我が家の精神的な柱は倒れてしまうでしょう。元々私たち兄弟は「大人になったら両親の負担を減らし、平穏な生活が送れるように」と考えていました。しかし、予想外なことに、こんな状況になってしまいました。母の入院中、病院で人が病気になった時の悲劇を数々目の当たりにしました。ある患者は治療費が払えないために家に帰らざるを得ず、その家族たちは大声で泣いていました。その泣き声は私の心にも響きました。自分の人生に漠然とした不安があった上、さらに母親が病気になって、生命の無常や人生の苦しみを一層感じさせられました。

 私は「母が死んだら、父のそばにいてあげて、父も亡くなったら、私と弟が各自に寂れた山の上の小さな寺にでも行って出家し、残りの人生を生きていこう」と考えていました。そんな日が来るのを何もできずに、ただ待つだけでした。

 占い師「神仙の導きがあれば、あなたたちの家は安泰になる」

 1994年春、弟は合肥市で法輪功の学習班に参加しました。家に帰ってきた弟は「この功法はとても良い」と言いました。

 弟が持って帰って来た『法輪功』という本を読んで、私の死んだような心が蘇りました。私が抱いていた人生の疑問に対する答えがすべて書かれていました。人の生きる意義、そして生命の根源と帰る所がわかりました。またなぜ、善人になるべきで、悪人になってはならないか、人はなぜ、病気になるのかを知りました。さらに、人はもっと高い境地にいるべきだと知りました。その時、とても冷静に心の中で、「生死がどうであれ、この師父に付いて行こう」と決め、自分の命に誓いました。26年来、この誓いに対して心が揺らいだことはないし、これからも絶対にあり得ません。

 その頃、私は「空の東側に大きな大佛が現れ、色とりどりの衣装を着た無数の飛天が空を舞う」という言葉で表現できないほど美しく、壮観な夢を見ました。

 そして、その間にもう一つの出来事がありました。弟が描いた絵を母親の友達にプレゼントしたところ、 その友人の甥は、当時の国内で最も有名な気功師(大法が伝わった後、それらの気功師は徐々に姿を消していった)の弟子で、李という名でした。その李さんが私の母の友人である彼の叔父の自宅を訪ねた際に、弟の絵を見て、弟に会いたいと言い出しました。以前、この李さんは功能を持っていると聞いたことがあります。李さんはその絵から何かが見えたに違いありません。李さんは弟に会い、「どんな功法を煉っているのか」と尋ね、弟は法輪功を学び始めたばかりだと答えました。 しばらくして、李さんは「この法輪功の師父は私の師父よりも功が高い。私たちは以前、法輪功の師父とコミュニケーションを取ろうと試したのだが、高い所にいらっしゃるので届かなかった。ぜひ、法輪功をしっかり煉るように」と言いました。

 その時の気功ブームは、法輪大法を広めるための道を切り開くためのものだったと、私たちは後から知りました。

 1994年6月、弟は母を連れて、師父の済南での法輪功講習会に参加しました。 その時母の手術後の傷口からはずっと血が混じった体液がにじみ出ており、すでに1年半経っていました。ガーゼを頻繁に交換しなければならず、腕も90度までしか上げることが出来ませんでした。 また、母は動く際に不安定で、常に誰かの支えが必要でした。そんな状態の母親が乗り物に乗って、遠方まで行くのに耐えられるのかと、家族の皆が心配しました。

 講習会が終わった翌日、暗くなってきた夕方頃、大きな座布団を背負った母が突然、家に帰って来ました。母親の微笑んでいる顔をみて、私は驚き、固まってしまいました。あんなにも弱っていた母親が別人のように元気になっていました! 庭に座布団を置いて、母はすぐ私に「私のベッドの傍にある絵を全部捨てて」と言ったのです。

 私は何も言わずにすぐ母親の部屋に行き、壁に貼られた厄除けの絵や枕下のナイフ、黄色い布のお守りなど、すべてを捨てました。母親と話す時間もなく、急いでご飯を作りに行ったのですが、何も話さなくても、枯れた森から新しい命が芽吹き成長していくような喜びと興奮をおぼえ、そして、希望に満ちた空気が流れているように感じました。

 それ以来、私たち家族は絶望や無力感、混乱に終止符を打ち、師父の無限の慈悲に包まれ、精神から肉体まですべて起死回生しました。大法を得た喜びは、それまでの苦悩や苦痛を消し去り、未来への希望で満ち溢れました。

 かつて、母親が病気の時に父親が尋ねたあの占い師は、「心配しなくてもいい。神仙が道を指し示してくださるとき、家族は安泰になる」と言いました。その話を父から聞いた時は、どうせ占い師のでまかせだと思ったのですが、本当に我が家を導いてくださった神仙がおられました!

 家族全員が佛光を浴びる

 母親と弟が講習会から帰って来て、私も法輪功を学び始め、家族の会話は毎日法輪功で持ちきりでした。母と弟は講習会での話を何度も思い出しては楽しそうに話し、私もいく度聞いても、聞き足りないくらいでした。講習会の間、母は傷口の瘡蓋(かさぶた)が落ち、血の混じった体液はピタリと止まって出なくなりました。行く前は腕を上げることすら出来なかったのですが、講習会を聞いてからは自由に動かせるようになり、法輪功の五式の功法も煉ることを教わりました。弟は師父の説法を聞きながら、よく寝てしまったそうですが、師父が脳の病気を調整してくださったのだと思います。講習会で母は天目が開き、師父の法身が見え、法輪が学習者たちの体を調整しているのが見えたそうです。我が家にも奇跡が起き、こんなにも素晴らしい数々の出来事が思いがけず訪れました。

 母親は以前、首に神経性皮膚炎を20年以上患っていました。根治できず、夏になると悪化してしまい、痒くて耐えず掻くと皮膚が剥がれ痛てみました。このような悪循環で皮膚炎がますます広がり、本当に苦しんでいました。講習会から帰宅した母親の首筋から顔やまぶた、手足まで、全身に皮膚炎が広がったのです。夏だったこともあり、隠すことができず、外出を控えました。しかし、母親はこれは業を滅しているのだと理解して、1カ月以上耐えていたところ、徐々に炎症は治まり、それ以来、全く再発していません。

 その後、兄、弟は次々と結婚して子供が生まれました。母は孫たちの面倒を見て、病院に行くこともなく、薬を飲むこともなく、元気に過ごしています。私はこの記事を書くために、記憶から母の癌のことを思い起こしていますが、母はそれらの辛い経験を殆ど忘れたかのように、毎日を過ごしています。

 弟はあれから心が安定し、吃音も少しずつ良くなり、可愛い息子と娘を育てながら幸せな家庭を築いています。義妹は弟のことを「世界一良い人だ」と言っています。義妹の母親も「彼女(義妹)の妹も建ちゃん(弟)のような相手を見つけてくれたらいいな」と私の母によく言っています。

 教師である私も、大法を通して学んだ優しさを生徒に伝えることが出来ました。新学期でクラス替えがあるのですが、以前、担当したクラスの保護者と生徒たちは、私が別のクラスを担当すると知ると、校長の所に行き、何度も私のクラスに入れてもらうように要求しました。仕方なく生徒を交換しました。ある生徒は母親に「お母さんも先生みたいに優しくしてくれればいいのに」と話したそうです。ある生徒は親と喧嘩をすると「私はあなたの子供じゃない。先生に所に養子に出して」と言ったそうです。

 大法の修煉は私の仕事に知恵を与えてくれました。私は学校のベテラン・中堅教師として、毎年全教員に対して公開授業や実演授業を行なっています。

 私と弟は「真・善・忍」の原則を実践しているだけでなく、親孝行をし、兄夫婦を尊敬し、義理の妹を愛しています。さらに、仕事においては個人的な損得を考えず、努力を尽くし、毎年のように優秀教員賞、優秀社員賞をいただきました。

 中国共産党が法輪大法の迫害を始めたとき、学校の上司はため息をつき、「文化大革命のように、これによってどれだけ多くの人材が失われるのだろうか!」と嘆きました。

 また、父と兄は法輪大法を学んでいませんが、私たちが絶望から立ち直り、新たな人生を歩んでいく様子を見ていたので、まったく当局の法輪大法に対する誹謗中傷する宣伝を信じていません。私たちの修煉を支持し、1999年以降、中国共産党が私たちに対する迫害に、父と兄は勇敢に前へ出て私たちを守り、迫害に反対しました。

 師父は「一人が煉功すれば、一家全員が受益する」[1]とおっしゃいました。私たちは修煉によって計り知れない恩恵を受けただけでなく、家族全員が大法の恩恵を受けてきたのです。

 私たちが大法を修煉し始めてから、以前に持病があった父も体調が良くなりました。数年前のある日、父は高さ1メートル椅子の上に小さな椅子を置き、それらを踏んでキッチン棚の物を取ろうとしたのですが、椅子が不安定で後ろ向きに倒れて後頭部を打ちました。

 その音を聞いて、すぐ駆け付けた私は唖然としました。80歳にもなる人がそんな高い所から落ちて後頭部を打ったら、普通なら死ぬか意識不明になります。しかし、父は私に向かって、「早く、起こしてくれ」と声を発しました。「骨折したのか?」と父に訊ねたところ、「骨は大丈夫だ」と答えました。私はベッドまで父を支えながら運び、安静にするよう伝えました。その後、検査を受けましたが、足の指の皮が捲(めく)れただけでした。兄は「普通の人ならこんな落ち方をしたら、きっと死んでいたよ!」と言いました。私たちは皆、師父が父を見守ってくださったに違いない、と思いました。その後も父は数回転んだことがあったのですが、少し療養するくらいで大事に至りませんでした。

 「真・善・忍」を修煉する上で最も大切なことは、心性を修めることです。トラブルに遭ったときは、まず自分のどこに問題があるのかを内に向けて探し、善の心を持って相手の立場に立って問題を考えるようにしなければなりません。自分に対してこのように求めるだけでなく、私は子供たちにも大法の法理を教え、指導をしています。現代の社会的習慣は青少年に悪影響を与えていますが、我が家の子供たちは良いことと悪いことの分別ができ、悪いことには決して手を出しません。素直で優しく、礼儀正しい「良い子」と周りから言われています。

 26年前に、家庭崩壊の危機に直面した我が家ですが、今では3代目も生まれ、私の両親は共に80代で、健康で長生きしています。家族全員がお互いを尊敬し、譲り合って、円満な大家族を築いています。姪はよく「うちの家族が一番幸せね」と自慢げに言います。 この幸福は、すべて大法によって与えられていると思います。

 家族全員がここに、師父に叩頭して、師父の慈悲な済度に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『オーストラリア法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/5/12/405083.html)
 
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