辛く修めることから 快く修めるまで
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年6月27日】長年学法していますが、自分に向けて探すことを身に付いていませんでした。人との付き合いの中でトラブルに遭遇した際に、多少は内に向けて探します。しかし、家では心の不平不満を我慢するものの、やはりその不平不満が少しづつ鬱積して行くにつれ、収まらなくなり、修煉のことをずっと苦しく辛く感じていました。2017年、地元の警官が私を訪ねてきました。その時から、ようやく真に徹底的に「問題があったときに内に向けてさがすこと」[1]の法理を理解できたので、喜んで修めることが出来るようになりました。夫の理不尽な要求や罵り、皮肉に対して、もう辛く感じることがなくなり、これらはみな良いことだと見なし、修煉をし続けることが出来るようになりました。

 やがて、この喜ぶ気持ちも感じ無くなり、ただ毎日淡々と実行すべき三つのことを行ない、日常生活においても、大法の真相を講じる時においても、良いことも良くないことも、みな良いことと見なして、自分のどこに問題が存在しているのか、どこが法に沿っていないのかを見つめ直しました。

 2018年11月、1人の同修と会いました。彼女の援助の下で、自分の修煉においてさらに大きな突破を得ました。それでようやく、どのように修煉すればよいのかが真にはっきりと理解できるようになりました。家族の反応においても、大法の真相を講じる時の効果においても、大きな変化が起きていることが分かりました。どれが後天に形成された観念なのか、どれが執着なのか、どれが外来の妨害なのかを見分けることが出来るようになりました。

 ある日、母にあることを確認しましたが、母が自分の関与を認めませんでした。事の始末をきちんと話そうと思い、母親に指摘しましたら、口論になりました。私は母が癇癪を起こして、顔が強張っているのを見てようやく母親を責めることをやめました。一体私のどこに問題があったのでしょうか? きっと自分にまだ問題があることは間違いありません。しかし、なぜ母は認めようとしないのでしょうか? その夜一晩中、私はずっと自分に向けて探しました。自分には善の心が少しも無かったことが分かりました。常に自分が正しい、みな母のためだ、母を向上させるために行なっているのだと思い込み、自分の気持ちを母に押し付けていました。母は良く修めていないと思い込んで、私の顕示心が災いしていたのです。母親の立場に立って、穏やかに話すことが出来ず、母親を批判することばかりを選択したため、母と口論になりました。それは邪悪に隙に乗じられ、支配されたのです。私は直ちに正念を発して、これらの顕示心を全部取り除き、滅することにしました。次の日、母に「昨日は私が間違えていました。私の間違いです。お母さんの気持ちも考えないで、自分の事ばかりでした。これは私心だと思います。邪悪に制御された私心を、正念を発して取り除くべきでした」と謝りました。母は私の言葉を聞いて、「よく悟ったわね。私もよくわかりました」。このようにまた、母といつもの平和な関係に戻りました。

 また、ある晩、夫が牛乳をベッドにこぼしました。私はこぼれた牛乳のあと片付けの手伝いをせずに、むしろ逆に、夫に対して「自分で拭いて」と言いました。機嫌が悪くなった夫はクドクドと言い始め、ガミガミと私を叱りつけました。とにかく全部が私の過失だと言うのです。夫の話を聞いて、また自分が過ちを犯したことに気づきました。自分の利己心があまりに強すぎると感じました。学法をしていたので、邪魔されたくなかったことが、かえって多くの無駄な時間を費やしてしまいました。私は直ちに学法を止め、正念を発して、夫の背後の妨害している邪悪を取り除くことにしました。すると、夫が「僕を死なせたいのだろう?」という言葉を発しました。この言葉は「まさしく邪悪が夫の口を通じて発した言葉ではないのか?」と考え、正念を発し続けました。「明日、離婚しよう。お前ともう1日たりとも一緒にいられない」と夫はその言葉を言い残し、家を出て会社に行きました。翌日、私は夫に謝りました。すると、夫も自分が言い過ぎことを反省しました。このようにして、この騒ぎは収まりました。

 師父の説法の中から、私はどのように旧勢力の按排を否定することが出来るのか、どのように否認するのかを学びました。それは、耳に聞こえたこと、目にしたこと、実際に遭遇したことを法に則って照らし合せて、法の要求に従って行ない、トラブルに遭遇したら、まず自分に向けて探すことが、すなわち、旧勢力を否定し、否認し、旧勢力の存在すら認めないことになるのです。

 振り返れば、私はいままで修煉が出来ていませんでした。それに気付くことが少し遅れているのですが、真に正法修煉の内包が分かり、時時刻刻、私達は師父のご加護の下にいることで、実際に欠けているのは自分の正念だけだということを知り、大きな喜びを感じました。

 ある日、電話で大法の真相を伝えた時に、市警の1人の警官に出会いました。長い時間かけて話しましたが、理解してもらえませんでした。その女性警官が「明日から、この回線を封鎖します」と私を脅しました。「この回線を封じてはなりません。この回線を使って人を救っています。人々が新しい紀元に入れるように真相を伝えているのです。それだけです。何も違法なことをしていません」と私は説明しました。しかし次の日から、この電話回線が使えなくなりました。3日目には、手持ちのプリペイドカードも使えなくなり、他の同修もほとんどが使えなくなりました。当時は本当に辛かったです。自分が良く行なえなかったため、同修まで影響を及ぼしたのです。自分の心を根元から掘り出してみて、一体自分のどこが間違っていたのでしょうか? 同修との交流から、自分が真相を伝えるのではなく、相手にただ一方的に流し込んでいることに気付きました。師父が『洪吟』の中の詩句「真相を講じ、正念を発し」[2]を思い出し、全部わかりました。真相を伝える時に、必ず正念を発しなければなりません。衆生が救われ得ることを妨げている全ての邪悪を取り除くのです。その法理が分かり、直ちに「プリペイドカードは衆生を救うために使います。私の過ちで他の大法弟子が衆生を救う事に影響を与えてはなりません。使えなくなったカードをもう一度開通してください。お願いします」と師父にお願いしました。翌月、プリペイドカードは本当に再び開通されていました。

 本当に「修は己にありて、功は師にあり」[3]です。師父が全てをやって下さっているのです。私達はただ口を動かし、手足を動かすだけなのです。師父、有難うございます。

 個人の体得ですので、法に符合してないところがあれば、慈悲なるご叱正を宜しくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「大法山東補導站へ」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「清醒」
   [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/4/30/404548.html)
 
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