重慶の医者の陳淑芳さんが受けた迫害の事実
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 【明慧日本2020年7月5日】重慶市の法輪功学習者・陳淑芳さん(80歳近い女性)は重慶市江北区第一人民病院(以下、第一病院)の医者だった。陳さんは以前、多種の病気を患っており体が弱かった。しかし、法輪功を学んでから、法輪功の教えに従って自分に要求して心を修め、より良い人になるようにと努力した。そのため、陳さんの健康状態が徐々に好転した。しかし、中国共産党当局が1999年7.20から、法輪功への迫害を開始した。法輪功の恩恵を受けた陳さんは法輪功への迫害停止を求めて北京へ行き、陳情したが、連行されて酷く迫害された。

 以下は、陳さんが数年来受け続けた迫害事実を自ら述べたものである。

 2000年12月末、江北第一病院と地元の派出所の共謀で、私は江北区法制弁公室に送られ、強制洗脳を二十数日にわたり受けた。そこに拘禁されている私を含む法輪功学習者は毎日、中共の法輪功に対する誹謗中傷の宣伝のテレビ番組を見せられたり、「転向」をせまられ、「三書」を書かせられたりした。「三書」を書かない者はより長い期間拘禁された。

 2003年、私は地元の街で法輪功の真相資料を配り、警官らに江北区拘留所に連行され、7日間拘留された。

 2004年、私は地元の派出所の警官・陳淑忠と江北第一病院の書記・呉培などによって、重慶市法制学習班(沙坪バー井口半辺街にある洗脳班)に強制的に入れられ、6カ月間ほど拘禁された。当時、洗脳班の責任者は重慶市政法委から退職した楊という人物で、教育係は第二鋼鉄工場から定年退職した陳(男)、張(女)の2人だった。その後、私は渝北区鹿山村洗脳班に拘禁された時に、陳と張の2人の教育係にも会った。私は洗脳班で毎日24時間、2人によって監視され、人身の自由が一切なかった。その間に、江北区国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の隊長・梁世濱が洗脳班に来たとき、私の家を家宅捜索して、法輪功の書籍十数冊を押収したことを私に告げた。

 2005年、私は江北区苗児石天原工場のホテルに連行され、15日間拘束された。

 2008年6月2日、江北区国内安全保衛部門の隊長・梁は警官ら5人を率いて、私の家を家宅捜索した。警官らは法輪功書籍三十数冊、法輪功の資料、mp3などの私物を押収し、再び私を渝北区鹿山村洗脳班に入れた。その後、梁は数回も洗脳班に来て、私に「『転向』すること、他の法輪功学習者を告発すること、法輪功の資料の出所を話すこと」などを強いた。梁は「他の者はもうすべて供述した。お前が言わなくても、俺たちにはもうすでにわかっている」と言った。洗脳班で2週間拘束後の6月17日に、私は「国家の法律の実施を破壊した」というでたらめな罪に問われ、江北区留置場に送られ、刑事拘留された。翌月の8日、警官は私を重慶市精神病院に連れて行かれ、検査を通して、私をその病院に入れようと企んだが失敗した。その後、私は労働教養処分1年を下され、重慶市女子労働教養所に送られた。

 2010年8月、法輪功の資料を街で配っていた私は、国内安全保衛部門の隊長・梁、警官・劉玲と大興村派出所の警官らにより、江北区留置場に連行された。その後、再び1年の労働教養処分を科された。

 教養所で、私はいわゆる学習させられることに抵抗し、「転向」を拒否したため、10月17日に厳重管理隊に入れられた。管理隊で私は朝の6時30分から夜の10時30分まで、軍人のように立たされたり、軍人のようにしゃかむ姿勢を強いられたりした。その上、警官2人は麻薬犯や強盗犯の受刑者を利用して手や椅子、靴、汚水用バケツなどで3日間連日、私をひどく殴打した。そのため、私は全身が青あざになって腫れ上り、頭にもたんこぶができて顔の皮膚も変色し、歯がグラグラになって髪の毛が大量に抜けた。頭部を殴られた際に頭がさく裂したように感じ、何も聞こえなくなった。しかも、私は殴られた時に、声を上げることを許されなかった。他の受刑者が悲惨な私の姿を見て、嫌がる人もいれば、怖くて泣く人もいた。

中共酷刑示意图:殴打、撞头

拷問のイメージ絵:殴打し、頭をぶつける

 その後、私は人がいない、監視カメラがついていない上の階に連れて行かれ、酷い虐待を受けた。私は強制的にアヒルのように歩かされたが、疲れきって歩けなくなると、すぐ殴打された。その上、水を飲むこともトイレに行くことも制限され、全身に傷を負った。

 警官らの指示を受けた受刑者らに罵られながら、猛打されたり、足を踏まれたりした。私はその時は、本当にその苦痛が耐え難いものであった。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/6/25/408169.html)
 
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