「私」について考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年7月12日】台湾の『悠遊字在』というアニメは、私も娘(子供弟子)も大好きです。

 中には、「私について」との1話があって、とても面白い内容でした。鹿の王が鹿の群れを守るため、自ら命を犠牲にするシーンを見る度に、私は思わず涙を流しました。

 鹿の王の無私無欲の行動は、鹿の群れの平安と人間の国王からの尊敬を勝ち取りました。そのため、狩猟が大好きな国王は、鹿を殺すのを禁止する法令を作りました。鹿の王は自らの善の力で鹿の群れを守り、人間の国王との怨念を解消したのです。

 修煉の中で、私達は家族全員が修煉者の場合でも、多くのトラブルや対立を作ってしまいます。それには、嫁姑問題もあれば、夫婦関係、また兄弟姉妹の問題もあり、常人の家庭のトラブルとほとんど変わりません。多くの修煉者は、「長く修煉していても、なぜこれだけのトラブルに巻き込まれ、なぜこれだけ多くの人心を放下できないのだろうか」と大変悩みました。それらのトラブルは、甚だしい場合、家族同士でも、一緒に法を学び、煉功し、交流することもできないほど大きいものです。

 人間は誰でも善の一面があります。修煉者はもっと善を修め、すべての人に優しくしたいと言う願望があり、家族に対してもなおさらそうなのです。しかし、現実の中で、いつも思う通りに行かないのはなぜでしょうか? それは「私」が邪魔をしているからだと私は理解しています。人に優しくしようとする時、もし、まったく雑念がなく、相手を変えようとせず、ひたすら相手の為に考えているのならば、相手はきっと感動するでしょう。しかし、もし、「『私』は彼のために何かをしたい」、「『私』はどうしたらいいのか?」、 「『私』はこうしてはいけない」等、「私」の考え方がいっぱいあれば、言い出した言葉も、行なった行動も、きっと自分を守るための私心があり、相手に違和感を覚えさせ、相手に拒まれるでしょう。

 この時、「あなたの為にやっているのよ」などと言って、相手に自分の考え方を押し付けようとして、相手に拒否されると、自分が傷つけられ、辛く感じるでしょう。実は、この時、「私」という私心が傷つけられたのです。それは相手の本当の気持ちを考えておらず、自分の立場で物事を考えていたからです。

 真相を伝える時、「『私』は大法弟子だから、三つのことを行なわなければならない」と思っているのでしょうか、それとも、「衆生が法のために来ているから、衆生にこのチャンスを与えなければならない」と考えているのでしょうか? 「私」を先に考えているならば、それは私心です。それは名、利、情です。名、利、情は多くの人心を変化させるため、自分の期待した結果にならなければ、辛く感じるでしょう。しかし、「私」から物事を考えていなければ、相手は真相を受け入れてくれるだろうか、自分に対する態度はどうであろうか等と、自分の心は動かされないでしょう。

 「私」は旧宇宙の物質で、新しい宇宙には入れません。「私」に心を動かさなければ、衆生との間に隔たりを作ることがありません。そうすれば大法の中で純粋な善と慈悲の心を修めることができ、表面の仮相に動じず、根本をしっかり守り、師父がおっしゃった「一つの心が動かなければ、全ての変動を制することができる!」[1] を初めてやり遂げることができます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「2005年カナダ法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/3/408448.html)
 
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