オーストリア大法弟子:神韻の仕事を協調する中での修煉体験
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文/オーストリアの大法弟子

 【明慧日本2020年7月30日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 2018年、私が住む都市は2回の神韻公演を迎えました。現地の同修はとても少ないため、準備や協調の仕事の多くは私のところにやって来ました。同修たちと協調する仕事は、最も困難な仕事だと思っています。同修たちの性格や習慣はそれぞれ異なって、みんなと一緒に仕事をするのは簡単なことではありません。しかし、この難しい仕事を通して修煉とは何か、心性の向上とは何かを、つくづく実感できました。

 このような貴重な機会を与えてくださった師父に心の底から感謝しております。摩擦と試練は、突風で吹き飛ばされたリンゴのように私の身に落ちてきて、自分はもうこれらの試練に耐えられないと思う時もありました。時々、家族との間、同修との間、ほかの協調人との間の人間関係がいきなりギクシャクして、要するに、トラブルは一気に起こるのです。

 すべての試練や葛藤を内に向けて探して心性を磨く機会であると自分を戒めました。もちろん、それをやり遂げるのは簡単ではありませんが、師父が按配してくださった機会を失わないように私は努力しています。あと何を悟れば良いのか、私は今どの執着心を探せば良いのか、その執着心がどこに隠されているのか、どうすればそれを放下できるのかを、私はよく自問自答しています。

 私が直面した最初の試練とは、現地協調人から、2018年オーストリアで神韻公演を迎えるすべての準備は、地元の修煉者のみで行うとの知らせを聞いた時です。非常に合理的な決定のようですが、しかし、ここ2年間、神韻芸術団がオーストラリアに来られた時、公演の宣伝や芸術団をもてなす仕事はほとんど近隣の国の同修の助けを借りて行われたのです。私からすると、現地のこれほど数少ない学習者で、宣伝ともてなしを円満に行うのは、ほぼ不可能です。オーストリアの学習者の多くは非常に忙しいか、経済的に余裕がないか、または非常に遠くに住んでいるので、今年、このあたりの仕事はきっと大失敗に終わると思いました。非常に無力さと不公平を感じながら内心で愚痴って、ネガティブな思考は波のように私を襲いました。

 おまけに、周りの同修も協調人の決定は不合理で、神韻公演は順調に上演できるかまで疑っていました。だんだんと、ネガティブな思考は私の正念を洗い流しました。ある日突然、自分は多くの時間を、どうやって問題を解決するかを考えることにではなくて、無駄なネガティブな思考に浪費したのだとやっと気がつきました。

 旧勢力が我々に、口論や喧嘩のためにエネルギーを無駄に使うように仕向けています。そこで、「もうここまでにする、これ以上マイナス方向に考えたくない」と私はネガティブな考えに厳粛に別れを言いました。

 思想業に関して師父は「しかしほとんどの人は強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます。そうであれば、その人は済度できる人です。善悪の分別がつき、つまり悟性の良い人ですので、わたしの法身が手助けをして、そのような思想業の大部分を消去してあげるのです。このようなケースは比較的多く見られますがしかしひとたび思想業が現われてきた時に、それに打ち勝つことができるかどうかは、本人次第です。動揺しない人なら、業を消すことができます」[1]と説かれました。

 協調人が決めたことに関して、それに従って協力していきたいと思います。協調人が下した決断を批判したり、評論したりするのは私の仕事ではありません。私は師父の按配を信じています。もう他人のことをネガティブに考えたくありません。自分の一番大切な仕事をどうやってこなすかを考えて、集中して取り組んでいきたいと思います。そう思うと、ネガティブ思考の波が止まりました。そして状況も変わり、チケットがほぼ完売した時に、ますます多くの同修が近隣の国から応援に来てくれました。まだまだ人手が足りない部分もありましたが、その中で私は心性を向上させました。

相手の過ちを寛容する

 ウクライナからオーストリアに移住しても、共産主義の邪悪な要素は自分の中にまだたくさん残っていることに気がつきました。それは、ウクライナにいた頃に特に意識もしませんでした。『中国共産党についての九つの論評』を読むことはとても大切だと分かっています。それより大切なのは、自分を改善して、間違っているところを見つけて、共産主義の邪悪な要素を取り除くことです。その要素の一つとは、何事に対しても誰のせいなのかを突き止めようとする癖です。

 夫によく言われることですが、トラブルや嫌なことがあると、私にはいつも犯人捜しをしたいという癖があります。私の価値観では、問題を解決したければトラブルの根源、つまり誰の責任なのか、誰が犯したミスなのかを見つけなければならないと思うので、だから、最初に夫の言ったことを理解できませんでした。しかし夫はいつも「人格者はいつも自分で責任を取る」と言っています。そのような言葉を私は本で読んだこともありますが、意味が理解できません。法輪大法を修煉した後でも、「修煉者はすべてのことに責任を持つこと、相手を責めるのでなく、内に向けて心性を高めなければならない」という道理を理解することができませんでした。

 ソ連のイデオロギーは、これとは正反対のことを人々に教えていました。つまり、過ちはきっと誰か具体的な人によって犯したものです。私のウクライナ人の女性友人(法輪功修煉者でない)の例を挙げましょう。子供が病気になったら、それは母親のせいに間違いないと彼女は確信しています。母親は子供の世話をしっかりしなかったからです。友人の固い考え方を、私も同様に持っていると気づいた時、とてもショックを受けました。誰のせいなのかを私はずっと見つけ出そうとしていることに、私はやっと気づきました。

 ある日、オーストリア人の母親が我が子に「心配しないで、誰も悪いことはしていませんよ、これはただの事故です」と言った場面に出くわしました。しかし当時のシチュエーションからみると、明らかにその子の不注意が原因で悪いことが起きたのです。考え方の違いに私は驚きました。

 師父は「次のことに注意してください。問題が現れたならば、責任を追及するのではなく、自分がどのように行なったかを見るべきです。誰が書いたのかも追及することなく、教訓をくみ取って、今後注意することです」[2]と説かれています。 

 しかし、言うのは簡単ですが実行するのは難しいのです。何十年にもわたって出来上がった考え方を変えるのはそう簡単ではありません。道理は分かっていますが、具体的なことになると、昔の自分の考え方に戻ってしまうこともしばしばあります。

 ある日、正見ネットに掲載した中国古代の物語を読みました。悪いことが起きた時に、他人のせいにしないことがいかに大切かをその物語は示しています。物語の中で、お爺さんは孫が路上で遊んでいるのを見ていて、突然、馬車がやってきて子供にぶつかりました。しかし、お爺さんは馬車に乗っていた人たちに「大丈夫だよ、あなたたちは急いでいるんだから、行って良いよ。わざと孫にぶつかったじゃないから」と言いました。 子供の親が帰ってきたら、子供はとても疲れて寝てしまったとお爺さんは伝えました。 翌朝、子供が目を覚ました時に何の怪我もしていなくて、何も起こらなかったようです。私は感動して涙が出てきました。

 同修が間違いを犯す時、たいてい私は怒ります。特に私とあまり親しくない同修、若しくはふだん私が信頼していない同修が間違いを起こす時、なおさら怒ります。

 かつて私との間に不愉快なことが起きたことのある中国人同修Aさんが、現地の各劇場の公演スケジュール表を送ってきてくれました。表に多くのミスがあります。ミスを発見するたびに私はAさんにマイナスのイメージを持ちます。ある日、私は同修Bさんとあるコンサートホールに行きました。コンサートが終わって観客が会場から出る時に、皆に神韻のパンフレットを配るためです。しかし、終わる時間になると、会場からほとんど人が出てきませんでした。Aさんが作った表に書いた「終了時間」は結局、演奏の合間の休憩時間にすぎなくて、本当の終了時間は1時間後なのです。その日はとても寒くて、私もBさんも体力が尽きましたので、コンサートが終わるのを待たずに帰るしかありませんでした。

 後になって分かったことですが、Aさんは大まかな時間しか書いておらず、コンサートの終了時間を正確に書いていませんでした。無駄足になったとを残念に思うほか、ネガティブな考えやAさんを悪く思う気持ちが私の心を支配しました。Aさんの修煉に問題があり邪悪に隙に乗じられて、私たちの仕事を邪魔しに来たと思いました。しかし、その日一緒に劇場に行ったBさんは、「相手の過ちを大目に見ましょう。皆は修煉途中の人なので、全く落ち度のない人はいません」と言いました。Bさんの言葉は私に自分の不足を気づかせました。

 なぜ人のミスを許せないのか、なぜいつも頑固な態度をとるのかを内に向けて探してみたら、それは子供の頃から始まったことだと分かりました。私の両親は、ミスや不注意のためによく私を厳しく叱って、父はいつも私の失敗に怒ります。もちろんその中から私は業力を消去したのですが、同じような人との接し方も覚えました。その原因が分かった時、内心から安堵感を感じ、すべてのネガティブな考えも消えました。

 数ヶ月後、同修たちと一緒に某劇場にチラシを配りに行きました。時間的にいうと、あれは神韻公演まで配れる最後のチャンスで、大型なコンサートでした。 私たち一行は7人もいて、3台の車を運転しました。しかし到着してみると、観客はすでに退場してしまい、コンサートは30分前にすでに終了したようでした。自分はコンサートの終了時間を間違えたのだろうかと心の中で動揺しましたが、口では「今日の観客は、退場が早すぎたのではないか」と弁解しました。家に帰ってプログラムを見ると、確かに自分はコンサートの終了時間を間違えていたことが分かり、とてもショックを受けました。ソファに横になり、何もする気が起こりません。

 このような事態を招いたのは、自分の過失だと分かっています。この事をきっかけに、他人の過ちを許さないからこそ、自分も同じ過ちを犯すことを悟りました。「相手の過ちを許さない」という執着心を根本から除去していないため、師父はこの事を通じて私に教訓を与えています。世の中に完璧な人はいなくて、人は誰でも間違いや失敗をします、他人のミスには慈悲を持って対応するべきです。

 師父は『洪吟三』(誰が是誰が非)にこう説かれました。

 修煉する人
 自らの過ちを探し
 各種の人心取り去ること多し
 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず
 正しきは彼
 過ちは私
 何を争ふものか[3]

 師父、ありがとうございます。

 同修の皆さん、ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪志先生の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志老師の著作:『精進要旨』「糾正」
 [3] 李洪志老師の著作:『洪吟三』「誰が是誰が非」

(2018年ヨーロッパ法会での発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/10/7/375448.html)
 
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