放棄して修煉が簡単且つ楽になった
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2020年8月24日】私は家庭の試練をなかなか乗り越えることができませんでした。妻は癇癪持ちで、私を汚い豚と罵り、「あなたのお母さんみたい」と言います。母は十数年前に他界しているにもかかわらず、妻がそのように言うことに怒りを感じました。正念が強い時は妻に助けられていると感じますが、人心が強い時は彼女を恨んでしまいます。この状態はいつ終わるのでしょうか。

 ある時、妻が罵ってきたので言い返したら、妻は悲しんで泣き、2日間も口をきいてくれませんでした。私も焦り「このままではいけない、私はまだ修煉者なのか? 突破しなくては」と思いました。

 私は「なぜ、これを乗り越えることができないのか? 恨まないことはできないだろうか」と自問しました。自分を分析すると、修めているのは表面的なことで、学法煉功をして、発正念をしていますが、着実に修めていませんでした。争いや後悔の中で徘徊し、本質的な変化もなく、争いが起こるたびに表面的なことばかりを見て、不満を抱えて喧嘩をし、事後にはまた後悔することの繰り返しで、向上できませんでした。

 自分を更に深く探りました。この怨恨の根は本当の自分でしょうか。いいえ、これは後天的に形成された泥であり、大法で洗い流せば、善や慈悲が現れてきて、恨みを無くすことができます。向上心があれば、師父が助けて下さいます。師父のおっしゃった「しかし、真の向上は放棄することであって、得ることではありません」[1]という言葉が脳裏に現れてきました。特に「放棄」の二文字が鮮明に現れました。よく考えると、放棄とは後ろへ一歩下がることで、とても簡単なことで、争う必要がありますか? 修煉者の自我や人心、観念の執着は海のようで、放棄とは洗浄と昇華の過程であり、この二文字は修煉を貫いています。

 このように思うと、心がすっきりし、精神的にも楽になりました。妻にくどくど言われたとき、私は境界の外にいるように、冷静に妻を見ることができるようになりました。どんなに威張って暴言を吐かれても、冷静に受け止めることができました。妻は私が修煉することを支持してくれています。これだけでもう十分です。

 夫婦で生活していると、お互いの習慣が違うところが必ずあり、固く自己を主張すると喧嘩になるだけで、放棄することは解決の良い方法だと感じました。例えば、餃子用の肉を買うとき、妻はミンチを買わず、肉を持ち帰り、私に刻むよう指示するのです。私は「なぜ、そのようにするの?」と聞いてみました。妻は「このほうが衛生的で、安心だから」と言いました。私が「みんな買っているじゃないか、大丈夫だよ」と言うと、妻は「何でそんなに頑固なの」と不機嫌になったので、私はすぐに笑顔で「分かった、君の言う通りにするよ」と言いました。彼女の考える「衛生的」と私の「時間を省く」という考えは、皆観念であり、自分の観念を放棄すれば関係がねじれることはありません。トラブルがエスカレートしていくのも、自分が放棄する中で更に向上していくためで、妻が私を成就させてくれているのだと思います。

 またあるとき孫娘が熱を出しました。妻はお酒で推拿(すいな)や鍼灸をやろうとします。私は焦りました。「孫娘も大法を修煉しており、こんなことをしたら体が真っ黒になってしまう」と思って、すぐに止めましたが、妻は激怒し「あなたに関係ないでしょう」と言われました。孫娘が可哀想に私を見ているのを見て、私は怨恨の念が脳に充満し、悪いものが上がってきました。以前ならば孫娘を連れて行きますが、今回はそのようにはせず、すぐ警戒しました。私は「孫娘は師父が守って下さっているので、誰も破壊できない」と思いました。これは怨恨の心を取り除く良いチャンスであり、自分を修め、発正念をして排除し、気持ちがすっきりしました。

 師父は「これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです」[2]と説かれました。私は師父のこの言葉をしっかり覚えており、人心、観念、魔性が出てきたら、すぐに取り除けば、とても向上できたように感じます。このようにすれば簡単で効果もいいのです。私は自分の体の小宇宙の防衛者であり、正しい要素に責任を持ち、体のどこか不快感や痛みがあれば、そこの空間に問題があるので、発正念をしてそこの空間を正し、そこの衆生を救うのです。

 この「放棄すること」が習慣になると、妻を見て可哀想になってきました。歴史上私たちはどんな因縁であれ、妻が私を傷つけたことは私の成就となります。妻が業を造らないように、怒られそうになると私はすぐに「怒らないで話し合おう」と言います。彼女を心から受け入れ許すことができたとき、自分も高尚な気持ちになりました。

 妻の体調は良くなく、出かけるときにいつも、靴のかかとを履かせてあげなくてはいけませんでした。最初はかがむことが嫌だと思っていました。しかし「高尚とは何か? 他の誰かのためで、妻に対してもそうでないか?」と思いました。思想を高めたら、行動も自然になり、相手のことを考え、他人に与えることを一種の幸福だと見なし、自分も喜んでやるようになります。

 同修の間でも同じであり、いくら修煉状態が良い同修でも、彼の中にも欠点や魔性が見えて来るのです。しかし、トラブルがある時に放棄することができれば、欠点を見ないで、長所だけを見れば、心が左右されず、2人の間に溝ができることはありません。例を挙げると、ある同修が刮痧(かっさ:中国の民間療法)をしに行くのを見て、とても驚きましが、すぐ「放棄」を思い出しました。以前であればきっと同修に言いに行きます。

 師父の言葉を思い出しました。「相手の良くないところを見るのではなく、いつもその人の良いところを見るべきです」[3]。弟子がどんな状態なのかは、師父が一番知っておられ、同修の欠点は自分を修める鏡であり、同修の欠点を見ることを放棄すれば、自分の不足を見ることができ、放棄すればするほど善の力が大きくなり、大法の基準に達します。自分を高く見ずプライドを捨てれば、相手への思いやりができ、相手に与えることができ、自分もきれいになります。

 以上は最近の少しの体得です。法に準じていないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 [2] 李洪志師父の著作:轉法輪
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/10/410276.html)
 
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