私の人生の道は師父が按排して下さった
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 【明慧日本2020年7月28日】私は母と一緒に『轉法輪』の中の第三講「自分の考えが歪んでいるからこそ、良くないものを招いてしまいます。」[1]を読んでいた時、突然私は5年前に起きた事件を思い出し、母が道を踏み外しそうになった理由を悟りました。

 当時私は高校3年生になろうとしていたある日、A同修は母に電話をかけてきて、私の生年月日を聞いてきて運勢を占ってくれました。彼は私が絵画と音楽に才能があると言って、絵画または楽器の教室に通わせることを提案し、そのほうが将来大学に進学しやすいと母に言いました。

 A同修は日ごろ、子供の勉強や成績、お金の稼ぎ方を話し合うのが好きで、母から聞いた話では彼が占いで株の情報を得て、お金を稼いたそうです。そのため私と母は彼と付き合うのを控えており、また彼が言ったことに警戒していました。最後に、私と母は納得しました、「私の人生の道は師父が按排してくださった、彼が言うことは当てにできないし、また彼の行動は法に合っていません」

 しかしA同修が再び電話をかけてきた時、母はなんと心が動かされて、私に直接彼と話すように電話を渡されました。当時私は学法が全然足りておらず、ただ怒りを感じ、母は何で約束を破ったのか理解できなくて、大法修煉者として占いで見たものは小道であり、「母は何で信じてしまったのだろうか」と思いました。電話を変わるとA同修に絵画、楽器を習った方がいいと言われ、また彼は私が生まれた月には楽譜が付いており、芸術に相応しいと言われました。最後に「よく考えてください」と言われ、電話を切った後、なんと母は私に絵画を習わせたがっていました。

 当時私は学法と煉功にあまり精進していませんでしたが、師父が『轉法輪』で言われたことは覚えていました。母と交流し、占いはそもそも間違っているのに、彼はどうやって言い当てられるのでしょうか。どうやって正解を知りうるのでしょうか。母と話し合ったことで、母は頭がはっきりし、この事件もこれで終わりました。

 今になってですが、私は突然悟りました。当時、この事件は良くないと気づいていましたが、私と母は内に向けて探せませんでした。その時の母はとても精進しているように見えました。なぜなら、母は普段「不二法門」に従って自分を厳しく律していたからです。では、どうしてA同修に影響されたのでしょうか。その前、邪悟の同修(しばらくして、この同修は目覚めた)が強引に偽経文を母に見せ、彼女のでたらめな思想を母に諭そうとしましたが、母がはっきりと断りました。それなのになぜA同修から2回電話が来た後、母は師父のお話を全て忘れてしまったのでしょうか。

 その時、私はただ母に対して怒りを感じ、A同修を見下していました。しかし母は、「私が大学に行くこと」に対してどれだけ執着していたのか気づいていなかったのです。今となって、私は師父の新経文『再び棒喝』を読み終った後、母と一緒に『轉法輪』を読みました。「自分の考えが歪んでいるからこそ、良くないものを招いてしまいます」を読む時に、私が突然悟ったのは、当時、自分自身が関門を乗り越えなければいけないという他に、母は「娘が大学に行けるかどうかに執着している」という1つの人心がありました。

 私が中学校、高校の時に率先して煉功や学法をしておらず、常人社会の様々な誘惑に溺れた為、大法弟子に見えなかっただけでなく、成績も非常に悪かったのです。母が保護者会に参加して、私が大学に行けそうにもないことを知った時、その晩は辛くて眠れませんでした。A同修から美術学生が進学しやいと聞いて、私は運よく大学に進学できると思いましたが、大法弟子の一生は全部師父が按排して下さったことに気づきませんでした。自分の人心が沢山の災いを招き、気が緩むと人心につられ回り道をしてしまいます。

 今、私は既に大学を卒業して1年経ち、あのことを改めて母と交流する時、母は感無量であり、師父が私たちに最高の按排を用意して下さって、私たち自身の持つ人心を取り除くのを待っておられたのです。母はある日外出して、道端でお鍋を繕っているお爺さんに出会うまで、娘が大学に行けるかどうかに執着していたことに、当時は気づかなかったと言いました。このお爺さんは道端に座って人に鍋を修理してお金を稼いでいました。しかし、彼は笑顔で仕事に集中しておりとても満足そうに見え、自分の仕事を楽しんでいました。母はこれは師父が自分に悟らせてくれたのだと気づきました。そして母は娘が大学に行けるかどうかにこだわり過ぎており、皆んなが大学に行けるなんて無理で、全ては決められているのだという事が分かり、母はその執着心を放下できたのです。

 師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません。」[2]と説かれています。今日この記事を書いたのは、どんなに小さい執着でも大きい過ちを犯してしまうことがあり、それに気づいていない可能性があることを自分に思い知らせるためです。私たちの一思一念(一つの考え)、一言一行(言葉と行為)は大法の要求に従って自分を律しなければなりません。

 不適切なところがあれば、慈悲をもってご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/19/409180.html)
 
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