師父の経文『最後になればなるほど、精進すべき』を読んでからの悟り
文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年7月4日】この間に、私の地域では大法弟子が連行され、家宅捜索され、拘禁される事例が相次ぎ発生しました。私はとても悲しくなり、思いが千々に乱れました。3年の間不当に拘禁された後、再び師父の経文『最後になればなるほど、精進すべき』を読むと、多くの悟りがありました。私は自分の修煉体験で我が地区の一部の同修の修煉の中で足りない部分を合わせて、修煉の中で如何にすれば、なるべく回り道をせずに歩み、また、回り道を少なく歩み、なるべく速く向上して、どうすれば、法を正す進展に追い付いて行けるのかを話したいと思います。
私達は法を正す時期の修煉者です。精進して着実に修める大法弟子は最終的に三界を抜け出し、師父が切り開かれた新しい天体の異なる次元の正覚、佛、道、神になります。したがって、私たちは必ず正しい法理に従って修煉しなければなりません。「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です」[1] 。 師父の説かれたこの部分の法は分かりやすく、はっきりとしていてその中の内涵が重要です。その中から私は悟りました。私たちは修煉の中で毎回魔難に遭遇した時、それを大きな素晴らしいことと見なし、必ずプラスの方面から問題を見て、常人と逆の方向から問題を見るべきだということです。
正しい法理の話になると、精進して着実に修める大法弟子なら理解し難くはないし、成し遂げるのも易しいのです。しかし片手で神を掴み、もう片手で人間を掴んでいる修煉者にとっては、そう簡単なことではありません。これらの人の修煉の道は比較的に苦しく、魔難が山積みで、魔難が大きくなって乗り越えられない時、旧勢力は大いに手を出してきます。例えば、連行は他でもなく旧勢力の使い慣れた迫害手段です。これに対して、私はつくづくとそのように感じました。
2017年3月30日、私は仕事の間の休憩時間を利用して、建物に法輪功の真相資料のシールを張っていたところ、県公安局へ連行され、不当に家宅捜索され、懲役3年の実刑を言い渡されました。刑期満了後、帰宅して心を込めて学法し、絶えず内に向けて探し、反省しました。師父の保護の下で、正念を頼りに数篇の文章を書いて真相を伝え、迫害に反対し、最後まで転向されず、四書も書かず、正々堂々と解放されましたが、称賛されるべきことではありませんでした。なぜなら、やはり修煉に漏れがあったからこそ、旧勢力に迫害の口実を掴まれたのです。師父は私たちに刑務所の中での修煉を按排されていません。そこは大法弟子が修煉する場所ではありません。掘り下げてみると、やはり人心があまりにも多くて重く、旧勢力のワナにはまったのです。教訓はあまりにも深刻なものでした。
旧勢力はどうして私を迫害できたのでしょうか。根本な原因は師父の説かれた法理を完全に悟っていなかったからです。毎回のトラブルに遭遇して、うまくいかないことを全て他人のせいにして内に向けて探さず、内に向けて修めず、やって来た難を乗り越えることが出来ないと時間が経つにつれて、それが本当に魔難になり、旧勢力は当然のことながらほしいままに迫害し、何らは憚(はばか)らなくなります。
私は迫害される前は行政機関の公務員でした。数十年間中共の無神論や党文化の闘争哲学、そして変異した観念を注ぎ込まれたことにより、闘争心の非常に強い性格でした。普段からスポーツの観戦をすることが大好きでした。例えば、テニス、バレーボールなどです。相手の選手が上手にプレーしている時でも、その人の代わりに喜ぶのではなく、心のバランスを崩して嫉妬してしまいます。すでに修煉していましたが、国際レベルの重要な試合があると、学法をしている最中であっても、試合の成績がどうなっているのかを確認し、強烈な闘争心を持って、絶えず嫉妬心を強めていました。
当然のことながら、魔性もなかなか取り除くことができず、魔性が修煉の中に反映されるとどうなるかを考えてみれば分かります。これほど多くの執着心を持って大法の仕事をすると、旧勢力は虎視眈々とじっと見つめています。人間は人間の事を行ない、神は神の事を行ないます。自分をしっかりと修煉しているからこそ、やっとさらに衆生をしっかりと救うことが出来ます。学法を通じて分かりましたが、三界の人類社会は宇宙と逆の理になっており、後天的に形成された人心や執着、観念を修めてから、やっとこの三界を抜け出すことが可能であり、高い次元へ修めていけます。毎回のトラブルがやって来た時に、自分を本当の修煉者として扱うことが出来るか否か、正しい法理に従って修煉することが出来るか否かは特に重要なことです。
師父は説かれました。「あなたが正念を堅め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます」[2]
迫害の発生後に弟や妹、親戚、友人は私のことを非常に心配していました。彼らは方法を尽くして私を救い出そうと思いました。当時、焦点は妻の同修の所に集まりました。皆が妻に邪悪な警官らにお金を送るように促しました。巨大な圧力に直面した妻は言われた通りにせず、逆に正義ある弁護士を招いて、私のために弁護する方法を取りました。二審の控訴には告訴状の付帯が必要ですが、告訴状では公安局、検察庁、裁判所の一部の人員が枉法徇私(おうほう-じゅんし)(※)していることを訴えました。同時に様々の方法で地方政府の各部門に法輪功の真相資料を郵送し、大いに邪悪な関係者らを怯えさせました。それと同時に相当な人々が大法の真相を知るようになりました。これこそ私たち大法弟子が行なうべきことです。
現在、中国での迫害はかなり深刻です。最後のあがきだと言えます。強制連行や不当な家宅捜索、拘禁に直面して、一部の同修はお金やその他の常人の方法で、これらの事を処理しようとしています。一部の同修はさらにまだ殴られてない、罵られてない状況下でも、なるべく早く悪辣なこの環境を離れようとして、非常に軽率にも「四書」を書きました。残念ながら悪い警官らは約束を守らず、釈放しませんでした。旧勢力から見ると、お前は楽に過ごしたいのか?
それに執着すればするほど、お前を逆に虐待するぞ、となります。師父と大法を裏切り、魂を売り渡したために旧勢力も相手にしません。
お金のことについて、私と妻は同じ考えを持っています。もし私たちが邪悪な警官らにお金を渡すと、邪悪に輸血をすることに等しく、悪人を助けたことになり、金銭にこき使われて、邪悪な警官らはさらに理知を失い、狂ったように大法弟子を迫害します。実際には間接的に犯罪を犯した事になります。なぜなら、私たちは法を正す師を助けている大法徒だからです。(もちろん、世の人々がこのような手段を取ることは別のことです)
今回の魔難を経験して、私はやっとこの部分の法の本当の内涵を悟りました。毎回魔難がやって来た時に、必ずタイムリーに内に向けて探し、また、必ずなくすべき人心や、観念、執着があるはずで、心性を向上させる絶好な機会であるととらえ、それによって本当に向上できます。ある同修はこう言いました。精進しているように見える同修がなぜ、いつも迫害されているのでしょうか、と。師父はかつて弟子の質問にこう答えてくださいました。
「弟子:大陸の弟子は師父にご挨拶を申し上げます。この一年近く、私が住んでいる省の各地で多数の大法弟子が一斉に連行された事件がありました。法を正すことが終わりに近づいているので、今このような妨害が現れたのは全体の修煉に問題があるからでしょうか? それとも…
師父:どれも違います。つまり、まだ修煉ができていなければ、旧勢力はあなたを修煉させているのです。旧勢力はどうしてもこのように行なおうとしています。旧勢力の言葉を借りると、中国大陸は道徳天尊の煉丹炉のように、火が激しく燃えてはじめて真金を作り出すことができます。私はすでに話しましたが、情勢が良くなったからといって、全ての邪悪も良くなったというわけではありません。邪悪が良くなるなどあり得ません。根絶されるしかありません。根絶されるまでおとなしくしているはずがなく、特に最後のあがきのとき、このように行動するのです。毒物の毒性が出ないようにしたくても、毒性がなくなるのですか? 何と言っても毒物なのです」[3]
古いことわざにこのような言い方があります。「艱難汝を玉にす」とは、人は困難や苦労を乗り越えることによって、初めて立派な人間に成長するのです。また、師父はこう説かれました。「魔難は主神の弟子を成就させる」[4] 。ですから、私たちはどんな苦難に遭遇しても法理に基づいて理知的に、正しく問題を見るべきです。これも私たちが大法に対して固く信じているかどうかの体現なのです。しかしもし、旧勢力が私たちに無理やり加えた魔難なら、私たちはそれを決して認めないし、受け入れず、全般的に全てを否定すべきです。大法は万事万物を造り上げました。私たちは大法が造り上げた生命です。私は大法が何よりも高いとしみじみと感じました。再び私たちを成就させたそれらの魔難を振り返って見ると、正に高い山の頂上から周囲の低い山々を見下ろしている、といった感じでした。
次元に限りがあり、上記は私の浅はかな認識です。もし、法に基づいていない所があれば、同修のご叱正をお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
[2] 李洪志師父の著作:『各地で説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
[3] 李洪志師父の経文:『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
[4] 李洪志師父の詩:『洪吟四』「生命の真諦」
(※)枉法徇私(おうほう-じゅんし:正しいきまりを曲げて、わがまま勝手に振る舞うこと)