文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年6月7日】師父は修煉の厳粛さについて説かれました。しかし、多くの同修はこの問題について十分認識しておらず、修煉において精進しているとは言えません。大法弟子は偉大な使命を持っており、大法弟子の修煉は歴史上のいかなる修煉よりも厳粛なものだと私は理解しています。ここでは、古代の修煉の形式から修煉の厳粛さについて、自らの考えを皆さんにお話させていただき、まだ悟っていない同修達に注意を呼びかけたいと思います。
古代の修煉の形式そのものは、修煉者に修煉という環境の中に身を置かせ、これらの環境は修煉者に常に注意を与え、多くのことを制限する役割を果たしています。古代の修煉は出家しなければなりません。出家することは、常人社会との縁を断ち切ることを意味します。修煉に入ることは修煉者にとって、人生の大きな決断を下さなければならないため、修煉の第一歩から厳しい試練に直面し、試されます。
それから、弟子入りをしなければなりません。弟子入りすることは、自分のすべてを師に預け、全身全霊で師と法を信じることを意味します。つまり修煉の厳粛さをしっかり理解し、修煉者としての自覚をもって修煉しなければなりません。修煉者は寺院や道観で暮らし、呼称や服装も常人と異なり、これらの事も修煉者に自分を常人と区別させる自覚を持たせます。
古代の修煉は修煉者に対する要求が厳しく、今の私達のように入るのも出るのも自由な訳ではありません。一部の法門は衆生をあまねく救済しないため、入門したくても、師が受け入れてくれるとは限りません。入門することは法を求める過程でもありますので、修煉の機縁の貴重さを分からせてくれます。また、修煉者が大きな誤りを犯した場合、追放されてしまえば、再び修煉し直すことは不可能になります。
今日の大法修煉は門戸を大きく開放し、誰でも学ぶことができ、大道無形であるのです。一方、大法弟子は法を正す師に手伝い、衆生を救い済度する重大な使命を担っているため、歴史上のいかなる修煉よりも厳粛です。同時に、師父は慈悲で、弟子が大きな過ちを犯しても、場合によってまた機会を与えて下さいます。大法弟子の修煉は形式もなく、社会そのものが修煉場となりますので、後は各々の個人の対応次第です。
大道無形の大法修煉を前にして、一部の同修はかえって修煉の偉大さと殊勝さを理解せず、自分を常人と混同してしまい、長く修煉していても修煉とは何かをまだ分かっておらず、大法修煉の厳粛さを十分に認識していません。
古今の修煉の形式上の比較を通して、修煉の厳粛さという問題を提起し、同修に注意を呼びかけたいと思いました。
共に精進し、我々の歴史的な使命を果たして行きたいと思います。
現段階での個人の少しの体得です。ご叱正をお願いします。