些細なことで修煉の素晴らしさを体験
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文/日本の大法弟子

 【明慧ネット2020年8月25日】師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません」[1]とおっしゃいました。私はいかに小さいことであっても、背後には執着する人心がすべて存在していることに気づきました。認識さえできれば、修められます! 唯一認識できなければ怖いことです。

 毎日厳しく心性を修煉する過程で、それぞれの人心が現れた瞬間に、先延ばしせず、避けようとしなければ、すべての関を乗り越えられると気づきました。人心を修めれば業が減り、ますます大法への信念が固くなります。人心を修めたため、物事の運びも良い方向へと転じ、修煉の素晴らしさを体得することができ、さらに修煉への信念が強固になります。

 一、仕事の中で面倒がる人心を修めて除去する

 ある時、同僚に業務手順の説明書を作るように頼まれました。同僚は私が作った文書を確認しましたが、気に入りませんでした。日を改めて話し合うことにしました。私たちはミーティングでどう直すかを話しました。日本人は仕事において非常にきめ細かく真面目だからです。書いたことに間違いはありませんが、グラフの形にすると一目瞭然で、変えたほうがいいという結論に至りました。レイアウトは私の苦手な方面で、今まで経験したこともなく、そのような概念は全くありません。彼女にそう言われて、私には「めんどうくさいな、どうやったらいいかわからないし、間違いではなければそのまま使えばいいのに」という人心がすぐ出てきました。この「煩わしい」という一念が現れた途端、私は直ちに人心だと気づきました。

 最近厳しく自分を律しているため、自分の心の様々な反応をしっかり見つめ、人心を動かすいかなる些細なことも見逃すことはありません。私にはわかっています。面倒がる心や自分が作ったものは使えるという固有の観念が作用したため、新しいことにチャレンジしたくなく、自分の観念を固守しようとしています。そこで、「関がきたぞ。相手は役者で関を持ちかけてきた。しっかり乗り越えろ」と自分に言い聞かせました。すると、その煩わしい思いがすぐに消えてしまいました。私が変えたくないと思うのは人心であり、本当の自分でしょうか?! それ以後、私は彼女からの要望や改善すべき点を真剣に記録するようにしました。

 ミーティングが終わってから、私は心の中で「私にはどうしてレイアウトの知恵がないのだろうか! 私は必ず良くできる」と考えました。その後、いかなるマイナス思考もなくし、ただできることだけを信じました。すると知恵が泉のように湧き出て、グラフはどのように描くべきか、キーワードはどれを選ぶかなど、すべて脳裏に現れました。弟子の念が正しければ、師父は私を手伝ってくださるとわかりました。10分足らずでレイアウトが出来上がりました。

 最後に、私は業務手順の説明書を完全に彼女の要求に従って直して送りました。なんと彼女の思惑通りのものができました。これは以前の私には考えられなかったことです。以前の自分の考えが修煉の妨げとなっていただけでなく、常人の仕事にまで影響していたのです。

 考えが変わらなければ、永遠に新しい創造ができず、自分が納得した決まりきった形式的な仕事しかできません。修煉を始めたばかりのころを思い返せば、大法を修煉して六道輪廻から解脱しようとしか考えていませんでした。まさかこのような思いがけない成果があり、今は本当に大法の無限の可能性に感動しており、常人社会での修煉を通して様々な不思議な変化が起きています。

 二、騒音に対する執着を修める

 ある晩、私は自分の部屋で法を暗記していました。そのとき、家族がトイレに入って携帯電話で動画を見始めました。トイレは私の部屋に近いので、動画の音声がはっきりと聞こえてきます。法を暗記し、心を静めようとしてもまったく静まらず、うっとうしくなり、その騒音はうるさくて我慢できません。以前の私ならすぐに家族を非難し、動画を見ないように言いつけていたでしょう。そのとき、私の考えは変わりました。どうしてその音に影響されるのでしょうか?! 師父は説法の中で説かれています。「三界は宇宙の一切と反対であるため、法理も常人の生存に適する反対となった理をこの次元の生命に与えています」[2]

 常人はこの音がうるさいと感じますが、私は反対の理で考えましょう。「まったくうるさくない」と自分に言い聞かせました。

 私はこれらの外界の要素による人体の反応を感じないようにしました。だんだんと本当にそんなにうるさく感じなくなりました。約20分後家族がトイレから出て来ました。私は口を修めて文句を言わず、かえって心の中で関を乗り越えさせてもらったことに感謝しました。

 国内の同修が刑務所で生死の拷問を受けているのとは違い、国外の環境は非常にのんびりしているとわかっています。しかし、修煉の基準は修煉環境が異なるたびに変わるわけではありません。それでは、常に自分を厳しく律しなければなりません。

 少しずつ向上する中で、私は師父の慈悲なるご加護とご教示を切実に感じており、実修してのち、思わぬ展開を通して師父や大法を信じる心がますます確固たるものとなりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法とは圓容しているものである」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/6/410020.html)
 
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