同修を助ける事と自分を修める事について
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年9月24日】同修が連行された時や同修が病業に遭った時に、私たちは各種の方法で魔難の中にいる同修を助けます。例えば同修のために発正念をしたり、同修が内に向けて探すことを手伝ったり、同修の問題点を指摘したり、同修と一緒に学法煉功をしたり、さらに同修の日常生活を援助したりなどをします。

 私たちが魔難の中にいる同修を助ける時に、幾つかの事を明確にしておかなければならないと、私は思っています。それらの事をここへ書き出してみます。

 一、「私はあなたを助けに来た」という考えをしないこ

 病業の迫害を受けている同修を助ける時、私たちの大多数は「私はあなたを助けに来た」という強い念を持っています。この念を持つと結果として、自分を外に置き、部外者になります。同修を助けることが、自分の修煉でもあると考えていないからです。

 一部の同修は魔難の中にいる同修を助けるとき、ずっと魔難の中にいる同修に「内に向けて探して」と言い続けたり、あるいはこの執着心、あの執着心があるからこういう難を招いた、とかとよく言ったりします。助けに行く同修の1人か、または2人が、あるいはもしも全員がこのような考え方を持っていれば、魔難の中にいる同修に巨大な圧力を与えることになります。するとこの無形な圧力の場の中で、魔難の中にいる同修はいっそう辛くなります。やがって、魔難の中にいる同修は耐えきれなくなり「皆、もう来なくていい」と言い出してしまうのです。

 ですから、私たちは病業の中の同修を助ける時に、同修だけに「内に向けて探す」と要求した場合は、自分を外に置いて自分の問題を考えていません。このように、自分も一緒に内に向けて探さないことは「助け」の正の作用が働かないと思います。

 師父は「如何なることに遭遇しても自分自身をみることができれば、その人はとても素晴らしい人で、圓満成就への道であなたを妨げるものは何もないと言えます。私たちは往々にしてどんなことに出遭っても、常に外に向かって探しています。『あなたはなぜ私にこのようなことをするのか?』と、心の中では不公平だと思い、自分自身のことを反省しません。これは全ての生命にとって、一つの最大で致命的な障碍です」[1]とおっしゃいました。

 ですから、私たちはまず自分の内に向けて探し、それから、同修に法理上で認識を高めることを助ければ、その時に発した念は正しい念であり、本当に同修を助けることになるのです。

 二、同修を助けることは自分を修めることに等しい

 私たち修煉者はいかなることに遭遇しても、私たち自身の修煉と関係しています。ですから、どんな時でも自分を物事の外に置くことはしません。例え同修に不治の病気の仮相が現れたとしても、私たちと違うと考えないで、私たちと同じだと考えなければなりません。私たちはまず、同修の不治の病という考えを取り除いてから、同修と一緒に学法、煉功、発正念をします。できれば一緒に外に出て、人々に法輪大法の真実を伝えるようにします。この過程で、私たちは絶えず自分を正し、絶えず自分の不足を探すべきです。自分をよく修めて自分の空間場を正せば、魔難の中にいる同修の本当の助けになります。

 多くの同修が交流する時、あるいは魔難の中にいる同修を助ける時、いつも師父の説法を持って魔難の中にいる同修と対照して「内に向けて探すこと」を勧めます。法はもちろん最も正しいのですが、そして、同修に内に向けて探すようにと勧めることも間違いではないのですが、なぜ、良い効果が出ないのでしょうか? それは私たちの善が足りず、発したエネルギーがあまり純正ではないからです。魔難の中にいる同修が、私たちが発した執着と良くない物質を受け取ったので、気持ちが良くならないのです。

 もし、魔難の中にいる同修の問題点を見つけたのなら、批判するのではなく、善を持って指摘すべきです。このようにすればきっと良い結果を得られ、同修が私たちの純正なエネルギー場の中で、知らないうちに病業の仮相が消えていくのです。

 三、「口調、善の心、道理」のすべてが重要である

 師父は「わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」 [2] とおっしゃいました。この経文を学ぶとき「なぜ、師父が口調、善の心を道理の前に置くのか」と私は疑問を持ちましたが、修煉の中で徐々に「私たちは口調や善の心が純粋な善であれば、発したエネルギーが最も正しい場になるのだ」と認識しました。でなければ、道理にいくら適っていても、口調が優しくなければ、それに師父の説法を持って同修と対照するばかりでは、きっと良い効果を収められないでしょう。

 私たちは魔難の中にいる同修を助けるという出発点が、いくら同修のためであったとしても、同修に圧力を感じさせ、不快を与えることがある時、自分自身から原因を探さなければなりません。師父は「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです」 [2] とおっしゃいました。同修を助ける時、どんな気持ちで接しているのでしょうか? 私たちの話は同修を泣かせられるでしょうか? ですから、私たちはもっとよく自分のことを考えるべきです。

 同修に不快感を与えるとき、私たちはきっと自分の何かを守りたいと考えています。しかし、旧勢力は他人を変えようとし、自分を変えないということをやっていますが、その時、私たちの考えも旧勢力に似ていることになるでしょう! 私たちは自分を変えたくはなく、同修を変えたいという考えが、旧勢力のやり方に符合した時、旧勢力はそれを見て、あなたまでも操ることにします。その結果、同修の間に隔てができ、行うことの妨害をもたらします。

 しかし、私たちは時々刻々、師父が私たちに与えた宝ものである「内に向けて探す」を覚えていれば、黙々と同修の不足を補い、邪悪に隙を与えず、邪悪が乗じることができないのです。

 私たちはどんな事に会っても、自身の修煉のことだと思って、第一念が自分の内に向けて探すとなれば、すべてが解決できます。

 以上は少しの浅い悟りですが、不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『シンガポール法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/5/411398.html)
 
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