【明慧日本2020年8月26日】師父の経文の『再び棒喝』が発表された後、私は繰り返し学び、自分にあのシンガポールの人と同じような思惟と行動があるかどうか、また自分がこの類の人に空間や居場所を与える思惟があるかどうかを見ました。
修煉は厳粛であり、法理が明晰でなければ脇道にそれてしまい、その上大きな問題を起こします。師父は『再び棒喝』で「私は仕方がなくまた天機を明らかにしました。しかし、このことの結果を分かっていますか?」[1]と説かれました。この言葉は何を意味しているかは分かりませんが、私の心は大いに揺さぶられ、心が苦しんでいます。師父の法の力は限りなく大きく、できないことはありません。しかし弟子として、師父の慈悲なる済度、師父が法を正される過程での大変さをどのくらい理解できるでしょうか。
私はできるだけ早く自分が認識した人心や各種の執着を放下し、法の中で自分を着実に修め、本当の大慈大悲を修め、多くの衆生を救い、師父の広大な恩や慈悲を無にしないように自分に言い聞かせました。
情勢は大きく変化しており、災害は人類を脅かし、生命は極限に堕落していますが、師父は広大な慈悲で、全てを救っておられます。表面から見えるものは天災と人災ですが、善悪の争い、神と悪魔の争い、目に見えない危険は無数にあります。現在の天体は悪魔や共産党を取り除き、宇宙は更新の段階に入ります。この悲劇の瞬間に、大法弟子は人を救う使者です。私たちはどうやってこの混乱した状況を正しく認識し、根本を守り抜くことができるかどうかが、何よりも大事です。
私は師父の『再び棒喝』を繰り返し学ぶことで、師父の慈悲と広大な恩を感じ、修煉の厳粛さと殊勝さをより強く認識することができました。
一、同修の意見に穏やかな気持ちで接する
師父は「全ての人は自分の執着を自分で悟り、乗り越えてきたら、それこそ本当の向上です」[1]、「修煉とは神の道を歩むことであり、あらゆる人心は障碍なのです」[1]と説かれました。
これも私の心を大きく動かしました。人心があれば、障碍があります。私は普段の生活には欲がなく、人心が少ないと思っていました。今回は物事の一点に執着することを発見し、自分の考えが正しいと思っていると、つい自分のエゴを主張してしまいがちです。実はこれは既に人心です。
人心で問題を考えると、人の思惟はその点しか見ておらず、神は問題を全体的に見ており、高次元の神は宇宙の各層の要素に影響を及ぼすかどうかを見るのです。自分が知っていることにいざ触れられたら、悪の一面がすぐ出てきて、自分が認識した理屈を守るために悪を使っており、これはとても恐ろしいことです。
ある日、シドニーに来たばかりの同修が私に「あなたは穏やかで、理にかなっている言い方をしているが、その中には悪があるように聞こえます」と言いました。私は笑いながら「ご指摘ありがとう、これからしっかり修めます、機会があればまた交流しましょう」と言いました。実はこの同修とはただ2回の面識しかなく、挨拶する程度で、交流したことはありませんが、これはきっと師父が再度彼女の口を借りて、私を悟らせて下さったのです。
実は、悪とは何でしょうか、悪は魔性の表れです。師父は「人間が道徳の規範と制約ないときに行なったことは魔性であり、佛を修めることは、つまりあなたの魔性を取り除き、佛性を充実させることなのです」[2]と説かれました。私は悟りました。善の中になければ、きっと悪であり、他の要素は存在していません。そして、師父は私が善を修めるように多くの機会を設けて下さっているのに、気づく時もあれば気づかない時もあります。
二、師父の慈悲なる済度を大切にし、修煉の道を正しく歩む
師父は「わたしは法の中で幾度となく説いたことがありますが、釈教の経書と末法の出現は、主に一部の人が自分の話、自分の認識を佛法の中に混ぜ入れたことによって引き起こされたことです。これは歴史上、最大の教訓です。ところが、どうしても常人の心を取り除くことができず、弁才、文才を顕示する心に執着する魔性に利用されて、知らぬ間に佛法を破壊している弟子がいるのです」[3]と説かれました。
自分自身と比較して、修煉の中で法から逸脱しているところがあるかどうかを見ました。私は「大法の修煉をすることができて、直接創世主に済度され、これはなんと聖なる縁でしょうか。もし自分をコントロールできなければ、それはとても危険なことです。全ては偶然に起こるものではなく、修煉するかしないか、修煉できるかどうかは自分次第です。
この時、「西遊記」の物語を思い出しました。物語の主人公たちは、表面上三蔵よりも能力が高く、孫悟空は一回のとんぼ返りで10万マイル以上の距離を跳ねることができ、沙悟浄、猪悟能、白馬玉龍は皆神通力があります。しかし真の経典が手に入った時、三蔵の果位が一番高いのです。なぜでしょうか。考えてみると、三蔵は方向感が強く、どんなことに遭遇しても動揺したり、迷ったりすることなく、経典にある西へ向かっていることに気が付きました。
大法を修煉するには、法理が明確であれば、方向性も明確であり、迷わず惑わされず、その次元に留まりすぎないのです。大法無辺であり、どの次元でも修めることができ、あなたの望む次元まで修煉することができ、師父は上限を設けてはおられません。
師父の『再び棒喝』から、私は「法に従わず人に従えば迷子になり、うっかり修めると逆方向に行ってしまうかもしれない」と悟りました。
修煉の道には偽りの余地はなく、真経を識別し、正しい道を歩むことが当面最優先のことです。
個人的な悟りですが、適切でないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性と魔性」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」