「恨み」と「不平」は「私心」から
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文/中国の大法弟子 覚縁

 【明慧日本2021年1月7日】ある年、法輪功に関する内容を書いた「春聯(しゅんれん)」を創っている過程で、ある協調人から「あなたが作った春聯は、直接法を実証することが出来ない、法を正す時期に法を実証することができないないだけでなく、伝統文化の復元だけでは、大法の人的、物的、財的資源を浪費し、他の同修が直接、法輪功迫害の真実を伝えて人々を救うことに影響を及ぼしています。法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい! という春聯を作ったら、どうですか? そのほうが衝撃的なものになります。今すぐ、春聯を作ることをやめて、町に行って真実を伝えることを提案します」と言いました。

 それを聞いた途端、私の人心と同修への恨みの心と闘争心が生じました。「私が、していることは一元もかからないし、私のお金だから好きに使っていいでしょう? なぜ私のことにかまうのですか? 人を救うために、今月、私はどうやって材料を買い足してきたか知っていますか? 普段は生活費の中から余ったお金を大法のプロジェクトに使っています。しかし、今月は給料を1元残らず消耗品に使いました。食費も貯めず、毎日、犬の餌にするという名目で、食堂の同僚の残飯を持ち帰っていました。自分で朝食と夕食を作り、残りは犬に食べさせました。毎日犬と食べ物を分け合っているのです。食堂の残飯がない時もあったので、飢えるしかないのです。あなた達に、散々言われるなんて」と不平に思って涙が出ました。

 しかし「大法弟子としては、これは行うことを行っただけで、何か不満があるのでしょうか? 不平を感じたのは自分ではなく、自我のための旧宇宙的な生命だったのです。師父は私たちに「まず他人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を優先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」 [1]と求められていますが、私たちはどのようにして不平不満を抱くのでしょうか? なので、不平不満を感じている私は、決して本当の私ではありません。

 私は涙をこらえて内に向かって探すことになりましたが、同修から大法の資源を無駄にしていると言われて、なぜ私は心の中で憤りを感じていたのでしょうか? 自分の貢献が他人に認められず、バランスを崩した私心を持っていることに気づきました。同修に対する恨みと不満は、すべてこの利己的な心から来ています。自分の努力したことに対して、あなた達は私を褒めるべきで、私を非難するべきではありません。自己への執着のため、すべてのことは自己が中心であり、自己が優先であり、大法を優先していないのです。表面上は大法を実証しているように見えますが、実際には自我を実証しています。

 また、同修との交流では、私がどのように三つのことを行ったか、どのように同修の問題解決を助けたか、あるプロジェクトで私がどのような役割を果たしたか、数十篇の文章を書いているとか、すべて、自分がいかに出来ているかを顕示します。自分の精進した面を無限に拡大して、自分の利己的な本質を覆い隠していました。自分は大法の中では取るに足らない一粒子であることや、法の中に自分が溶け込んでいないことに気づかなかったのです。

 大法弟子として自分の行うことを行うのが私の義務です。本質的には、師父がいらっしゃらなくて、大法がなければ、私の生命さえも成り立たないのです。私の知恵も能力も富も、すべて師父が与えてくださったものであり、すべて師父のものです。師父はこれだけのものを与えてくださいました。もともと師父の財産だったものを手に入れ、勝手に使うことは間違っていると気づき、しかもかなりお金に執着していることにも気づきました。うちの地域で長年、大法を修煉し、とても質素な生活をしている高齢の修煉者に比べて、私はとても意気地がないように思え、気づかないうちに「天の功を横取りする」ということを繰り返していました。

 私はさらに内に向かって探しました。同修たちは春聯を人々に贈る機会を利用して、人々に法輪功迫害の真実を伝え、三退をするよう伝え、毎日数十人の人を三退させることができ、効果は非常に良いのです。なぜ人を救えないと言えるのでしょうか? 最初に気がついたのは、自分の心が法に沿っていないことと、ネガティブな考えが多すぎることでした。明慧ネットで春聯に関する言葉を選ぶたびに、まず思い浮かんだのは、大法的なものが目立ちすぎて、普通の人が貼るには無理だということでした。真実を語る言葉が露骨すぎて人々に受け入れられないかもしれません。私の場合は、人を救おうとする心が純粋ではなく、衆生が救われないようにしているかも知れないので、当然効果は良くありませんでした。同修がそう言っても不思議ではありません。

 ここまで考えて、私は心を込めて同修と交流しました。大法に基づいて自分の認識が向上してからは同修を恨まなくなりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/28/305685.html)
 
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