文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2021年1月9日】法を正す修煉の中で、私は「私たちが他の人とのトラブルに直面したり、自分の心の中のトラブルに直面した時、私たちは法に則って答えを探して、はじめて正道を歩むことができ、創生主の慈悲を実感することができるのだ」ということに気づきました。
一、恐れる心を突破し技術的なメンテナンスを行う
どの年であったかは記憶していませんが、同修のAさんが突然私のところにやってきて「ある同修のパソコンが使えなくなり、メンテンナンスする人を探しており、どうすればいいかわかりません」と言い、私に「助けてくれませんか」と聞きました。私の恐れる心が重く、私がより多くの同修と接触したがらないということをAさんは知っていたので、労苦をいとわず問題が起きたパソコンを取りに自分の家に戻るか、修理のために私の家に送る、ということでした。
その時、私は学法が少なく、正念正行と、正々堂々と人を救うという概念に対してみなぼんやりとしていたために、恐れる心を突破して出て行き、さらに多くの同修と協力することができませんでした。Aさんはこのようにして雨にも風にも負けず、間に立って協調し、助けていました。当時私は「Aさんは大きな庇護者のようであり、私は避難所におり、私が行うべきことを行っている」と感じていました。恥ずかしくて言えませんが、このような協力の仕方が何年も続いた後、私の正念が少し上がってきたとAさんが見て取り、私を連れて別の同修Bさんに会わせました。
当時私はBさんの自宅の資料拠点の環境に適応しなかったのですが、大法により人を救うためにBさんが心を尽くし、衆生に責任を持つBさんの心に対して、私は何もせずに帰るわけにはいかず、同修一人が大変な思いをしてこの大きな資料拠点をサポートしていることに無慈悲にはなれませんでした。Aさんがそばで相談してくれることだけではなく、自分をどの位置に置かなければならないのかについて、私はただ自分で決めることしかできませんでした。
現在(訳注:2020年11月)考えてみると、当時選択するための難度は、まさに私の長年の依頼心に衝撃を与え、本当に独立して法に則って思考し選択すべき時が来たのでした。私は「大法弟子は修煉する道をどのように歩むべきかを自分で選択しなければならない」ということがわかりました。私はついにBさんに協力し始めました。この協力は、もう7年になります。
二、人を救うことの必要性を基準とする
Bさんと協力している期間、Bさんは各種の資料の要求に対して比較的厳格で、消耗材の購入から、プリント、製本、カバーの作成まで、さらに資料の外箱に至るまで、どれもこれも完璧でした。協力し始めたばかりの時、私は「Bさんの要求は高すぎ、さらにいくらか他の人を強制するので、受け入れるのが比較的難しい」と感じました。私は「いくつかの部分はやり方が細かすぎて、時間を無駄にしている」と思えてなりませんでした。私はBさんの要求の基準に基づいて行いましたが、望んで受け入れたわけではなく、ただひそかに不服でした。
ある日のこと急に、自分が資料の基準の要求に対して、すでにBさんに近づいていることに私は気づき、Bさんのやり方は、さらに人を救う必要性に符合していました。美しい資料そのものも、大法のすばらしさを実証しており、人を救う役割を担っていました。美しい資料に人は引き寄せられてさらに見たくなり、大法を広め、衆生はさらに大法の真相を受け入れようとするのでした。私自身の考えはどのように人を救う効率を高めるのかということであり、衆生を救い済度する角度に立った観点からではありませんでした。
他のプロジェクトに影響しないことを前提に、お金と時間を多く使いましたが、衆生が真相を受け入れ、救い済度されることに有利であれば、それこそ刃に力を使うということであり、人を救う効率を高めました。その後、明慧ネットが発表した各種の資料と制作基準も絶えず向上しました。私は「高い基準を採用して資料を制作することが、正道である」ということがわかりました。人を救う効果を基点にせず、自分の認識にしがみつくことは、自分自身に執着することでした。
より多くの同修と接触するにしたがって、「私が自分の心の中の基準を提唱した時、すべての同修がみな受け入れようとするわけではない」ことに気がつきました。ある同修は顔を立てるために、私が提案を出した時、すぐに制作方法を調整しましたが、私が離れると、再び元に戻しました。さらにある同修は、私の提案を受け入れることを率直に拒否しました。始めたばかりの時、私の心は同修の態度に動かされました。同修が喜んで受け入れると、私は喜びで胸がいっぱいになり、同修が私をいいかげんにあしらう時、私はどうにもならないと感じ、同修が直接受け入れたくないと表明した場合、機嫌が悪くなり、同修に対していろんな考えを抱き、交流したくありませんでした。
以前は、すべてこのような考え方でずっといつも「ただ相手に自分を認めてほしい」という執着に塞がれていました。その後のある出来事で、さらに私は全体に協力する中で感じ、自我の観念を放下し、各個人の意見の意義を尊重するようになりました。
その1年、明慧の真相卓上用カレンダーをプリントした時、ある同修がプリント属性内の色を混ぜるいくつかのパラメーターをみなチェックしているのを見て、このようにしてプリントした色は比較的濃かったのでした。このような色と元の文書の色とを比べ、差が大きいと私は感じ、同修に「私たちはこれらのパラメータを選択せず、元の色に近い方が、比較的見栄えが良くなります」と言いました。同修は私の考えを認めず「このいくつかのパラメーターを選ばないと、色が浅くなり、濃度が不十分で、パラメーターを選んだほうが見栄えが良くなる」と感じていました。
私たちは譲歩せず平行線のままで、他の同修の考え方を聞いてみることになりました。私は心の中で「もともとの色は、純粋でエレガントで、同修たちは必ず元の色の方が好きなはずで、尋ねてみればわかる」と思いました。結局、数人の同修に聞いた結果は「同修たちは郊外の市場に行って縁のある人にカレンダーを配ると、多くの衆生がみな色の強いカバーデザインが比較的好きで、旧正月が近づいているような気分になるので、強い色彩はさらによい雰囲気を引き立てる」というものでした。
私は「法を正す時期の大法弟子の修煉の中では、人を救うことが本筋で、各プロジェクトの中で、各方面の衆生を救い済度することの必要性を基準とすべきだ」ということがわかりました。
三、観念を打ち破り旧勢力を否定する
数年前、この地域で不当な大規模逮捕が発生し、私は連行されました。その時私が悟ったのは「体が檻の中にいても、できる限り相手の言ったことに影響されるべきではない」ということでした。
不当に拘禁されていた期間、私は「外に出たい」という心を観察し、考え、「外に出たい」という考えは人心が主導したものか? 利己的なものなのか? 私は努力してさまざまな人心が涌き起こるのを抑え「この考えはどの人心がコントロールするもので、その考えはどの執着によって引き起こされたのか」と自分に言い聞かせました。
「私の以前の修煉の中で取り除いた比較的多くの徹底した人心と執着により、不当に拘禁された環境の中でも、私の心は比較的安定していた」ことに気づきました。そして以前は考えることを怠り、ぐずぐずとして向き合いたくなく、率先して欲望などを正そうとしないことが暴露され、衝撃を受けた主要なものがこのような人心、執着と人の観念、そして低い基準でした。私は「旧勢力はこのような隙を利用して、それらの自分勝手な目的を達成しようとしていた」ことを悟りました。しかし大法弟子はさまざまな環境の中で、冷静さを失わず、自我を見分けなければなりませんでした。このことがはっきりし、私の心はだんだんと落ち着いてきました。
突然ある日の夜、ある種の「これ以上何も欲しがらない」気持ちになり、これは私が経験したことのない一種の体験でした。それまでのすべての強い思い、特に「外に出たい」という心が、その瞬間、まったく見つからず、心の中が突然空っぽになりました。私は「法の中での要求を心の中で考えると、体がここにあっても、なんとこのような不思議な感覚を体験することができる」と驚きました。
翌日の午前中、監房のドアが開き、私の名前が呼ばれ、私は家に帰っていいと告げられました。この関の中で、私が悟ったのは現時点で私に対する法の要求に達したということだ、ということを私は理解しました。
体は自由になりましたが、不当に逮捕され、拘禁された経験は、心の鎖を形成し、心を閉じさせ、私の足元をも閉じました。同修のEさんが手紙を送って来て、私に交流しにEさんの家に来るようにと言うことでした。Eさんも技術担当の同修で、同時に自宅が資料拠点でもありました。私は返事を出しEさんに「私は行きたくなく、あなたに迷惑をかけたくありません」と伝えました。Eさんは返事をよこし「来てください、怖くありませんから!」と言いました。
私は心の中で同修に感謝し、また同修の正念に感動しましたが、やはりEさんの家にはあえて行きませんでした。Eさんはあきらめず、数通の手紙を続けて送り、あるマーケットに行って私と会って話をする約束を持ちかけ、私はついに同意しました。はっきりと覚えているのですが、その時私は心配そうにマーケットのベンチに座り、そばにいるEさんの口調は平和的で、リラックスした笑顔で、数時間話しました。2回目も、数時間でした。Eさんのその理性的な交流内容は、まるで一つのハンマーのようなもので、私の心の鍵をたたきました。Eさんの努力はむだ足にはなりませんでした。2回の交流の後、「私は師父が私のために按排してくださった道に戻らなければならず、私にあるべき責任を負い、新たに役割を担わなければならない! 師がおられ、法があるのに、私はこのように自暴自棄になることはできない!」と決めました。
師父は「大法弟子にとって、皆さんの修煉は最も重要です。なぜなら、あなたがしっかり修めていなければ、行なおうとすることを完成することができず、人を救う力もそれほど大きくないからです」[1]と説かれました。
私は系統的に師父のすべての説法を学び始めました。なぜならEさんとの交流の中から、私は「だからこそ人の観念が私の考えの中に浮かび、なぜなら私の学法が少なく、特に『轉法輪』以外のその他の説法が少なかったからだ」と感じたからでした。このようにして私は多方面で、特に法を正す時期の修煉の中の多くの法理に対して、緩んでしまいました。私は法輪大法ウェブサイト上の法輪功の関連書籍の順序通りに、一冊また一冊と法を学び、現在(訳注:2020年11月)まで学び、ずっと止まることなく、またもう止めたくありませんでした。
学法を通じて、私は「邪悪な旧勢力がどのような表面形式をとろうとも、そこには不当な拘禁、身体的迫害、経済的迫害、家庭環境への干渉、携帯電話、テレビ、電子製品への妨害などを含め、その邪悪な目的は、大法弟子に仕事をさせず、法を正す時期の大法弟子が行うべき三つのことをさせず、大法弟子が三つのことをしっかり行おうとする意志を動揺させようとするものだ」ということを悟りました。それならば旧勢力を徹底的に否定し、私たちは言葉や行為の観点から、思想の観点から旧勢力に目的を達成させてはなりませんでした。
四、使命を引き受け自我の肥大を防ぐ
最終的に同修たちと交流したかったのは「技術プロジェクトを行う中で、比較的容易に出現する自我が肥大する問題」でした。多くの資料拠点の同修は技術担当の同修を上客としてもてなしました。時間が経つにつれ、人心が容易に養われました。もし私たちが自分自身を明確に認識し、責任を明確にし、欲張らず、同修との関係を正しくできれば、自我の肥大を抑制することができました。
私は「私たちは全体の中にいるのであって、全体の上にいるのではない」ということを悟りました。技術担当の同修は一般的に比較的少なく、明らかに不足することもありますが、これは技術的な仕事が何か特別なことであることを説明しているのではまったくなく、技術的な仕事を行うこととその他のプロジェクトは実質上に大きな違いはありませんでした。
まず、私は「どのようなプロジェクトを行おうとも、すべて師父の按排である」と思いました。どのようなプロジェクトを行おうとも、法を正す中にみな基準があり、誰も例外ではありませんでした。次に、技術の仕事を行う中で接触する同修は、多数が資料拠点の同修であり、さらには資料を配り、面と向かって真相を伝え、携帯電話を利用して真相を伝え、三退を勧める同修であり、また家の中で明慧ネットに接続し、全体で協力し合って正念を発する同修もいました。私は「同修たちこそ技術の仕事を行うことで協力しなければならない主体であり、技術担当の同修はこのような主体となる同修たちにサービスを提供するのだ」と思いました。同修が仕事を行う時の態度や自分で決めた角度によっていつも、修煉の状態が現れました。
このようなことを悟り、修理やメンテナンス作業が完了し、同修が感謝の意を表す時、私はいつも感謝の気持ちを込めて、同修に対して「私たちの縁はみな師父のところで運命づけられており、私たちはみな師父に感謝申し上げましょう! みなさんがプロジェクトをしっかり行うのと同じように、私はただ自分が行うべきことを行っているだけです」と言いました。時には同修はやはり、私が機器を修理しパソコンをメンテナンスし技術を教えることは辛苦である、と感じ、私は同修に対して「みなさんがこれらの法器を使い、インターネットでダウンロードし、消耗材を購入し、さまざまな人を救う資料をプリントして制作し、さらに資料を衆生の手元に届けることは、また辛苦なことです!」と言いました。
ある時に同修が交通費としていくらかのお金を渡したいと思い、さらには多少強制的な同修もいました。私は「ありがとうございます、お気持ちだけありがたく頂戴いたします。あなたはプロジェクトを行う時、バスに乗り、消耗材を買い、法器を買うなどをしており、みな自分のお金を使っていると私は思います。もし私の経済状況が比較的緊張しており、このお金を受け取っても人を救うことに影響しないのであれば、私は受け取るかもしれません。しかし今はそういう状況ではありません」と言いました。同修は私がこのように言うのを聞いて、もう無理強いしようとはしませんでした。
この文章で言及しているのは、ただ自分個人の現段階での認識です。文中でもし法に符合していないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
(明慧ネット第17回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)