私達が褒め称えるべきは大法です
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2021年1月18日】修煉者にとって、宇宙の真理への渇望は生涯の追求であり、一方で未知の状態にある修煉者にとっては、宇宙の真理の不可解さは修煉における混乱をもたらします。 混乱を断ち切るために、多くの人が天目を開いた同修と接することを好み、あらゆることを相談したいと思うようになりました。時を経て、天目が開いた同修を宇宙の真理の伝達者と見なして、すべての人のお手本になっているという考え方が形成されてきました。 ある程度は共に向上を促す役割を果たしていますが、執着を生む傾向もあります。

 法の理解が深まるにつれ、私たちが歩む道は確かに難しくなってきていることに気づきました。常人の心がある限り、私たちの修煉に反映されている宇宙の相生相克の制約を常に受けています。どんなに良いことをしていても、微かに自分の生活の中に不純で不正確な要素が残っていることに気づきます。それを修正して抑制しなければ、自分の修煉にも他人の修煉にも悪影響を及ぼし、損失をもたらすことになるのです。

 同修Sさんは、天目が開いた修煉者であり、また正念がともて強いのです。かつては邪悪な中共の刑務所で、迫害との戦いもよくしていました。 一度アイデアが閃いて、自分で曲を作りました。警官や彼女を苦しめた受刑者、そして同修に歌を披露しました。 その歌は全員に大きな衝撃を与え、それ以来、彼女を迫害していた警官や囚人たちはだいぶ大人しくなりました。同修Lさんは、SさんとGさんと知り合いでした。LさんがうっかりSさんのことを口にしたこともあり、それを知っていて、歌詞まで覚えていたGさんがみんなにその歌を歌いました。歌詞はとても良くて、歌声もすてきでした。しかし、Lさんは何かおかしいと漠然と感じていたが、それが何なのかは分からなかったのです。家に戻ってしばらくの間ずっと考えました。そして、同修への心の崇拝がいかに恐ろしいものであるかを悟りました。私たちは大法の弟子であり、崇拝すべきなのは大法であるはずで、称賛するのは師父と大法であるべきなのです。まさか、修煉中の人を崇拝することはいいことでしょうか? その人がどんなによく行っていても、大法の加持の下で行っているのであって、大法の加持がなければ、反迫害の活動も全く行うことができないのです。

 大法弟子の間でこのようなことがもう何度もあって、いつまで経っても無くならないのです。 天目が開いた同修については、そのような原因が植え付けられていますが、将来の結果に対処することは困難です。 同修Mさんは地方の人で、故郷を17年間離れ、東北地区に長く住んでいます。一度、故郷の同修から「いつ地元に帰ってくるのか、修煉状態が悪くなった自分を助けて欲しい」と電話がかかってきたことがありました。 これを聞いた同修Mさんはとても後悔していました。 17年経った今でも、自分は同修の間で、天目が開いた予言者のように、非常に心性が良くて、修煉の道しるべとなっているという印象でした。 実際、当時のあの状態は、多くの執着があったことが原因で、真の修煉の状態だったのでしょうか?  自分の中でも印象がぼやけているが、故郷の同修に執着をもたらしました。また故郷の同修は強い依存心を形成し、しかもこの執着心が17年間も続いて、これはもう犯罪ではないでしょうか。

 師父は慈悲深くて、衆生済度をしておられます。大法修煉は常人社会において、仕事や生活をしながら修煉することができます。表面的には簡単そうに見えますが、修煉者への心性基準は全く下がっていないので、言わば修煉がもっと厳しくなっているのです。 天目が開いた同修にとっては、常人社会での試練だけでなく、別の次元の試練にも遭遇したことがあります。 少しだけ未知なことを悟ったとはいえ、要求もさらに高くなっています。 世の中の名声や富の誘惑は非常に多く、天目を開いた同修の多くはそれらをよくコントロールできておらず、時には宇宙の真実を語るときには、常人の執着を持ち、したがって同修を誤解させ、自分に業力を作ってしまい、それで道を踏み外してしまうのです。 以前に出会ったある同修は、天目が開いていて、周りの同修をよく指導していたのですが、大きな病の関が現れた後、目が見えなくなり、話せなくなり、やがて亡くなってしまいました。 もし周りの人が親身になって気づかせてあげれば、または彼女自身が自分の過ちに気づくことができれば、結果は違っていたかもしれません。

 20年以上の修煉の道を振り返り、大法弟子たちの修煉を振り返ってみると、天目が開いた同修を崇拝し、お世辞を言うという現象が途切れることはありませんでした。 これは綱渡りのようなもので、よく訓練された人はバランスをマスターすることができ、それをよく把握していない人は落ちていきます。大法弟子の修煉において、天目が開いた同修が果たした前向きな役割は否定できません。 しかし、人にお世辞を言ったり崇拝したりする人は、自分がお世辞をいうのは人間でしょうか、それとも賛美したのは大法でしょうか、自分のお世辞が他の人に何をもたらすのかを本当に考えるべきです。 天目が開いた同修がいることも大法や師父の按排であり、目的は共に向上することであって、この人やあの人を崇拝することではないことを区別して理解できれば幸いです。

 天目の開いた同修として、常に自分の執着を見つけ、善悪を区別し、他の同修のお世辞や崇拝は心を磨く良い機会と捉え、自分の名声や利益などの感情を取り除くことができれば、私たちの修煉をより神聖なものにしてくれます。 世間の埃や汚れを一掃すること、それが師父が求められていることです。

 最後に、同修が共に向上し、精進することを願って、師父の説法の一節を記録しておきたいと思います。

 「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[1]

 上記はあくまでも私の個人的な認識なため、何か不適切なところがあればご慈悲に訂正をお願いします。

 合掌。

 注:
 [1] 李洪志师父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/17/416607.html)
 
関連文章