学法の大切さを体験した
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年3月6日】私は1999年前に法を得た古い学習者です。これまで、様々な心性の関と魔難を経験しました。修煉の過程において勇猛邁進してきましたが、学法しても、なかなか突破することが出来ませんでした。最近、慈悲なる師父が私を悟らせてくださり、ようやく突破できるようになりました。

 これまで、師父は、説法のなかで常に学法の重要性を強調されてきました。同修の交流文章の中でも、学法する時は専念しなければならないとよく書かれています。しかし、以前、私はこのことについてあまり重視したことがありませんでした。旧勢力の按排に影響を受けて、学法に対する妨げが十重二十重となった可能性もあります。毎日学法しているものの、身が入らず、学法することが任務となっていました。特に『轉法輪』を読む時に、前の文章を読めば、次の文章の内容も自然に分かり、全く新しい悟りと収穫を得られず、甚だしきに至っては、義務感で学法するだけで、心から学法する喜びを感じられませんでした。

 学法しても身が入らず、法を勉強することの意味を考えたこともありませんでした。法を読んだことが、法を学んだことだと認識し、完全に形式に流れていました。『轉法輪』を読み終えても自分は何を読んだか全く分かりません。そのため、私はよく師父の各地での説法を読みます。集中できるだけでなく、その中から悟れるものも多いと思っているからです。『轉法輪』を集中して読むことを徹底できなかった為、怖気づいてしまいました。

 師父は「法を勉強し続け、本当に心を放下して法を読み、真面目に『轉法輪』を読んで歩んできた人こそ、神は最も敬服しています」[1]といわれました。長期に亘って、続けて真剣に『轉法輪』を学ぶことは実に容易なことではありません。容易ではない理由は、この法の内容がとても肝要であり、一旦法の内容を理解して、法を得ることが出来れば、修煉の中にある多くの障害を乗り越えることができるからだと思います。旧勢力は私の圓満成就を望んでいないため、私に法を簡単に得させてくれません。従って学法する難易度を上げ、学法しても法を得させず、私を眠らせ、忙しくさせ、怖気づかせ、様々な妨害を行うのです。

 学法する自分の現状を突破できないため、修煉において法理による導きを得られません。そして自分の修煉の道で難に遭遇します、この紆余曲折を経て暫く彷徨った後、私はようやく決心しました。必ず自分の学法の状態を突破して、『轉法輪』を多く学ばなければなければなりません。師父は「『轉法輪』は系統的に人々を圓満成就させることができる大法、天機なのです」「2]といわれました。

 あれ以来、毎日『轉法輪』を二講学ぶことを決心しました。学法する姿勢は正座か結跏趺坐のどちらかです。天目の開いてる同修の交流文章の中で、天上の神たちも跪いて法を聴いていることに言及しています。これは単なる姿勢だけの問題ではないと思います。これは一つの敬虔な心と師を敬う、法を敬う姿勢の表われなのです。

 学法する時に、まず全ての人間の観念を捨てるべきだと思います。人間の観念を帯びて法を学んだらどの様に天上の法を得られるのでしょうか? 例えば、『轉法輪』は一冊の本にすぎないという根強い認識、学法は本を読むことと同じであるという観念などを捨て去る必要があります。もし私達が『轉法輪』は光り輝いている一冊の貴重な書物だと見ることが出来、本を開けば、中から無数の不思議な法の表われが目の前で繰り広げられており、全ての文字の背後に師父の法身の形姿を見ることができれば、私はまだ読みたくない、読み続けられないと思うでしょうか? 残念なことに私の天目がまだこの本の真相を見せてくれていないため、私は迷いの中にいるのです。

 しかし、『轉法輪』の本の真相が見えないから、その真相は事実ではないとでもいうのですか? それは自分の悟性が低いことを物語っているのではないでしょうか?

 以前「憑き物」、「気を盗むこと」、「気を採ること」の法を読んでも、自分との関わりのない内容だと思っていましたが、今ではすべての内容に対して新しい悟りを得ることができます。師父はこれらの法理を通して、私を啓発され、私に今まで見えていなかった法理を悟らせてくださり、今現在の私の修煉に関わりのあることを悟らせて下さるのです。以前の自分の認識は実に浅はかで、無知なものでした。

 また、師父の説法の順序は全て念入りに按排され、広大な内包に富んでいることを悟りました。私は学法を通じて、煉功する時にしか現れない状態を感じ取ることが出来ました。例えば、強いエネルギー場や、蓮華座の上に座って回旋していることなどを感じました。今、法を学べば、私は法の中の全ての言葉を固く信じ、自分の心が法の全ての言葉に賛同し、法のすべての言葉が真理そのものであり、本当に法が述べた通りだと心の中で感じることができます。しかしそれまで私は師父の説法をはじめから固く信じたことがありませんでした。師父の説法の中にある一部の法に対し、自分には理解できない、あるいは自分にとって不可思議だと思っていました。このような人心を帯びた状態では、大法の法理はもちろん私に現れて来ません。

 法の大切さを知ってから、私は、学法する時に、様々な妨害を克服する努力をするようになりました。まず、清浄心を保てるように、心を静めて、学法に集中します。気が散った時に自分の顔をひっぱたきます。必ず全ての法を固く信じる信念を抱いて学法しなければならないことを、自らに言い聞かせました。真に法の貴重さを理解できる人は大法を大切にするはずです。学法の大切さを知ることが出来れば、精進して学法に励み、修煉の向上を得ることが出来るのです。

 師父は「逆から言えば、精進していない弟子も法を勉強しており、法がとても素晴らしいと分かっていますが、法に則っておらず、正念も足りないので、認識はやはり高まらないのです。つまり、本当に法の貴重さを理解することができないから、なかなかやる気が湧いてこないのです」[3]と言われました。

 これまでの自分は、法を大切にする気持ちと敬虔さがほかの同修と比べて足りませんでしたが、師父は私に学法の大切さを認識させてくださいました。法を良く学ぶことはまるで身体に血液と栄養を送り込むようなことで、急いで続けて法を学ばなければ、生命が枯れて萎んでいきます。法は私の生命を継続させる源であり、私に活力と正念を与えてくれるのです。

 以上は個人の悟りです、法に沿っていないところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『アメリカ西部法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/25/421344.html)
 
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