文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年3月27日】私は法輪大法を修煉して20年あまりになりました。以前、私は毎年の法輪大法デーへの投稿について、重要なのは参加する姿勢であり、仕事が忙しいとか、状態が良くないとかの場合、投稿しなくても間違っているとは言えず、書いても書かなくても問題ないと思っていました。
最近、私の学法の状態はとても良く、読めば読むほど大法の奥深さに震撼され、畏敬の念に打たれました。
先日、学法を終え投稿のことを考えていると、突然頭の中で、毎年の世界法輪大法デーの原稿募集がいかに神聖で荘厳なものかと思いつきました。大法弟子が法を実証する神聖な法会は宇宙からも注目されていて、一人一人の大法弟子は敬虔な心と態度で臨み、真剣にこの試験を完成すべきだと思いました。
この新しい認識は金剛のように私の脳に現れ、投稿に対する考え方が一掃されました。
今までは法輪大法デーの原稿募集について、法の上でその深い意義を理解しておらず、大法弟子としてのあるべき敬意と大切さを認識していなかったことに気付きました。
ちょうど同修が来たので、私はすぐに自分の悟ったことを同修と交流しました。何か法理上の認識があった時、私はいつも同修たちと分かち合い、共に向上したい気持ちを持っています。
私の話を聞いて、同修は戸惑う表情で「長年修煉しているけど、投稿に参加したことはない」と言いました。私が「今年こそ参加しましょう」と勧めると、「何を書けばいいのか分からない」と言われました。「ある方面に対する認識などを書くこともいい」とヒントを与えると、同修は「そうだね!」と応じました。
私はこの同修とは長い付き合いで、よく行き来していますが、周囲の同修は彼女が臆病者だと思う人もいます。彼女は長年にわたって地元で法輪功迫害の実態を伝える重要なプロジェクトに携わっていて、安全を考慮し、具体的な事は同修である家族にすら知らせていません。彼女が直面している圧力は誰も知らず、私も必要な時だけ手伝いに行っています。プロジェクトの責任者にとって、どれほど困難で危険か、私しか分かっていません。私から見ると、彼女は『西遊記』の唐僧のように、怖がる心もありますが、西へと進む歩みを一度も止めたことはありません。
このような同修が「何を書けばいいのか分からない」と言ったことに驚きました。同修に自慢する心がないことは素晴らしいのですが、投稿は自分を実証することではありません。私たちはみな師父のおっしゃった通りにすべきだと分かっていますが、毎年の法輪大法デー原稿募集の知らせは明慧ネットから発表されたもので、これこそ師父が望まれていることではありませんか?
同修が帰った後、私はさきほどの交流と彼女の最近の状態を考え、彼女には主意識がはっきりしていない問題があると思いました。そう考えている時、ふと自分が内に向けて探すのではなく、人の問題を見ているだけだと気づきました。師父は彼女の状態を私に見せ、私にも似たような問題がないか、ヒントを与えてくださっているのではないかと思いました。すると、最近私はよくサイトにアクセスし、見たいものが見つからなくてもやめられず、貴重な時間を無駄にしてしまっていることに気付きました。これは主意識がしっかりしておらず、ネットに操られている状態ではありませんか?
このことを思いついた時、私の頭の中で師父のお姿が現れました。師父は薄い紫の光に囲まれ、1頭のライオンが前に立っており、少し興奮している様子で、左前足を持ち上げてまっすぐに師父を見つめていました。その光景は1分もたたないうちに消えました。師父は私にライオンのように勇猛精進するように励ましてくださっていると思いました。
今まで私は、いかに正しい態度で同修の向上に力を尽くすのか、そして、いかに自分の態度を正すのか、いつも態度そのものに着目していましたが、同修の状態から逆に、内に向けて探し自分を修めることが分かりませんでした。今日やっとこれができました。
今回の原稿募集について、私は同修に投稿するように提案し、共に法の上で認識を高めることができればと思っていました。学校の試験に喩えれば、同じ教室で自分だけが試験の答案を完成し、ほかの人が回答していないことを無視してはいけません。この同修が投稿し始めれば、周りの同修たちにも影響を与えることになると思います。
世界法輪大法デー原稿募集は、師父が大法弟子に与えてくださった大法を実証する神聖な機縁であり、私たちは恭しい心で受けさせていただき、真剣な態度で対応しなければなりません。この試験の答案には師父の慈悲と厚い期待が載せられています。
私たちの投稿が発表されるかどうかに関わらず、これは宇宙の歴史に刻まれ、一人一人の大法弟子が歩んできた法を実証する道に残されると思います。
私はこのような夢を見たことがありました。法輪功への迫害を引き起こした首謀者である江沢民を告訴する大法弟子の訴状は、他空間で古代の竹簡となり、一つ一つの枠で区切られた棚に納められており、専門の天兵天将がそれを守っていました。
ここで、私は同修たちに投稿することを提案するとともに、それに参加する神聖さと厳粛さを認識し、真剣に恭しい態度で臨み、師父の度重なる按排と期待に背かないようにしなければならないと思います。
以上は私の心得で、法に符合しないところがあれば、ご指摘をよろしくお願いします。