迫害が終わらないのは生死を放下できるかどうかの試練
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年6月8日】学習者の中で多かれ少なかれ時間に執着し、現在も依然として、精進している人がいれば、先が見えなくて、迫害の終焉が見えないので困惑し、怠けている人もいます。私の理解では、この表面の状態はまさに私たちが生死を放下できるかどうかの試練だと思います。

 数年前に読んだ小説で、がんを宣告され、医者から「あと数日しか生きられない」と言われた役人の話を思い出しました。彼は突然、自分の人生で放下できなかったもの、例えば自分に酷い仕打ちをした人、自分の肩書、待遇、子供のことなど全てを一度に放下することができる気がしました。しかし、その後医者から誤診で、ガンではないことを伝えられると、彼はまたそれらの物を放下できなくなりました。

 私たちの修煉にも類似しているところがあり、人は名利や情のために生きているので、もし師父が正法の終わり時間を告げられたら、今まで放下できなかった全ての執着を簡単に放下し、圓満成就ができ、そろそろあの美しい世界に戻れるので、これらの人間の物を放下できない理由があるでしょうか。しかし、このような放下が認められますか? もちろん認められません。これは偽物であり、あの役人の例と一緒で、本当の放下ではないのです。もし、あの役人は自分があと数年も生きられると分かった状況下で、それらの物を放下できれば、本当に内心から放下したことになります。

 私たちは何に執着しますか? やはり人間の名利や情であり、名利や情を放下することはすなわち生死を放下することです。私たちは張道陵が趙昇を試す例を知っていますが、彼は最後に、趙昇に崖から一緒に飛び降りるようにと頼みました。あの状況を考えてみると趙昇はまだ名利や情に執着しているのでしょうか? していないのです。彼は生死を放下し、最後に圓満成就したのです。もちろん、それは過去の修煉方法であり、その試練は極端なもので、大法修煉はこのようなものではありません。終わりが見えない状況下で、名利や情への執着を放下できれば、本当の放下です。「長旅は馬力に通じ、長日は心に通じる」ということは間違いありません。

 私たちが早く人を救うために師父は苦しみに耐えてくださいました。また私たちが本当に生死を放下できるかどうかの試練でもあり、このような按排は非常に秩序があります。

 孟子は「天の将に大任を斯の人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏にし、行いにはその為す所を払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能くせざる所を増益せしむる所以なり」と言われています。

 今、私達は大法弟子になることができ、歴史の中でこのような試練を経て、ここまで来ることは非常に難しく、今この時、この社会状態は私たちが成就するための永遠的な機会でもあるのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/2/426440.html)
 
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