文/大連市の大法弟子
【明慧日本2021年6月13日】2、3年前、県外の同修が私達の地域に来て交流している間、直接同修から掛かって来た電話を聞いて、地元の同修はこの様に行うのは師父の説法にそぐわないと考え、このようにすれば、隠れた安全上のリスクがあることをその同修に忠告しました。 しかしこの同修は、「私達は常人の方法を使わず(携帯電話が盗聴されるのを防備すること)、正念を使います!」と言いました。
この同修と一緒に来たある同修は「8」の手振りを示して、周囲の同修に説明しました「もう8年になり(つまりこの遣り方である)、今まで迫害されたことはありません!」。 その言葉は、この同修の正念がとても強くて、8年来ずっと携帯電話で同修に連絡をしたけれども、一度も迫害されていない事を意味しています。しかし1年以内に、ネット上でこの同修が連行された情報が投稿され、その上、多くの同修を巻き添えにし、現地にとても大きな損失をもたらしました。
昨日、また県外の同修(女性)が私達の地域に来て仕事をし、携帯電話の安全問題について言及しました。彼女は、私達の地元の同修間で携帯電話での連絡を禁止している事に対して再びとても焦り、「常人の方法で携帯電話の盗聴を防備するべきではなく、正念を使わなければなりません」と言い、そして、私達が「『心性』が向上しない」ことに対してとても焦っていました。 私達は善意を持って彼女に話しました「携帯電話のマイクを取り去れば、少なくとも普段の会話は盗聴されることはない」。 しかし、彼女はどうしても聞き入れる事ができませんでした。
これは私にある疑問を抱かせました。正念とは何でしょうか? 自分の正しいと思う考えが正念ですか? 常人でも自分の考えが正しいと思い、他の人に忠告します。師父の「法を師とする」という説法から、個人の正しいかどうかという考えは、自分の感覚で判断するべきではなく、法を用いて判断するべきです。師父は説法の中で何度も「携帯電話の安全に注意しなければならなりません」と警告されていますが、同修の中には、恐怖心がない事が正念であると悟る人もいます。これは法を師とすると言えるのでしょうか?
以上は個人の認識に過ぎず、間違いがあれば、訂正してください。
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】