文/日本の大法弟子
【明慧日本2021年9月26日】一定の間隔をおいて、私の修煉状態が悪くなり、すごく落ち込んだり、疲れたり、何もしたくなくなったりしていました。 これは自分の思想業が邪魔をしているせいだとわかったので、すぐに法の勉強と煉功を強化しました。しばらくは大丈夫でしたが、また良くない思考が戻ってしまいました。 これは自分の修煉状態の結果であり、悪いところが出れば出てくるものだと思っていました。 しかし、ふと自分が積極的に修煉していないこと、悪いとわかっていても言い訳をしていることに気づいたのです。
法を学ぶことで、私がいつも旧勢力に利用されていたのは、私が法を正す視点で物事を見ていなかったからだとわかりました。例えば「大法弟子として、真我ではない悪い考えを持ってはいけない」と思うことはほとんどなく、むしろ「なんでまたこんなことが出てくるんだ」と不満に思っていたのです。師父が按排してくださった道を歩まず、旧勢力の罠にはまってしまいました。私は悪魔のような困難を経験した後、問題が起きたときに、前向きな思考でこれらの妨害を取り除くことを考えていなかったことに気がつきました。
最初にグループ内の同修と対立したとき「自分は正しいことをしている」と思っていましたが、主張し続ければ対立が勃発し、一度主張したら勝てないかもしれないし、主張することは修煉者の状態ではないと思ったので我慢していたのです。口には出しませんでしたが、心の中では「自分は正しい」と思っているのですから、自分の主張をどうしても手放すことができませんでした。そのため、別の同修に話しかけてしまい、話せば話すほど「この人に支えてもらいたい」と焦ってしまうのでした。すると同修は「あなたは、このプロジェクトにしがみついているのではありませんか」と指摘されたのです。 直ぐに内に向けてみました。私の闘争心が生じ始めた時から、私はずっと自分の主張にこだわっていたのです。人間的な思考を用いて物事を考えており、利己主義に陥った後、大法のプロジェクトを言い訳にしていたのです。この基点が間違っていたと気づいたのです。
師父はこう説かれました。
「魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行ない、学習者は長期にわたり魔難に陥っています」 [1]
私自身もそうだったのではありませんか? 私は物事に遭遇した時、いつも人間の思考で判断していたのです。悪魔のような困難を経験した後、自分は大法弟子であり、神の思考で物事を見るべきだと思い出したのです。法を学んでいるときは、とてもよく理解できていますが、具体的なことになると混乱してしまうのです。 同修たちと具体的に意見が合わないとき、心の包容力を広げ、自分の意見を捨てて相手に同意すれば、争いは起こらないのです。同修たちが私の上達を助けてくれているのですから、感謝しなければなりません。
師父はこう説かれました。
「皆さんが良く行うということは、旧勢力が按排した道を歩むことではなく、目的は旧勢力に隙に付け入られないようにすることです」 [2]
大法弟子とは、師が法を正し、衆生を救い済度するのを助けるために来た人たちです。法を正すという観点から見れば、お互いに協力しており、矛盾があるときは、それを実践できるかどうかにかかっています。このことを理解したとき、私の心にあった重いものが消えました。
以上は個人的な認識ですが、次元が限られています。適当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ワシントンDC法会での説法」