身体を緩めなかったことから思いついたこと
■ 印刷版
 

文/韓国の大法弟子

 【明慧日本2021年11月18日】数日前に同修と一緒に動功を煉りました。第二式の「両側抱輪(頭の両側で法輪を抱える)」を煉る時、同修は肩を立てないで緩めるようにと注意してくれました。そこで私はやっと自分の肩がいつも緊張した状態であることに気づきました。

 それからの数日間、第二式を煉る時に意識的に注意して見ると、腹前抱輪(腹部の前で法輪を抱える)を除いた三つの抱輪の動作で私の肩は立って緊張した状態でした。それには驚きました。同修は私に『大圓満法』をしっかり読み、自分の動作が、どこが正しくないかを見つけるように勧めてくれました。わたしはその提案を受け入れました。

 『大圓満法』で師父は煉功に対して「身体を真っ直ぐにし、全身を緩めて、完全に内から外までみな緩めて、だれないようにし、頭を真っ直ぐにする」[1]、「どこかを緩めないと、そこは充分に演煉されることができない、それでそこが益々堅くなり、最後にそこは残って煉ることができなくなり、転化されず、演化できなくなる。歯に隙間を空ければ、それが緩む。動作の要求は基本的にこうである」[1]と教えて下さいました。

 修煉してから二十数年も経つ古い学習者として、私はずっと自分の動作がかなり良くできていると思っていましたが、実は慣れた状態のなかで分かっていなかっただけでした。なるほど、だから肩が常にだるくて痛み出し、調子が悪かったのです。すぐ動作を修正すると、肩のだるさと痛い感覚がなくなりました。

 このことを通じて、長年修煉してきたことで多くの同修は自ら法に同化し、執着心を修めてなくすことができるようにはなりましたが、知らないうちに生じたいくつかの習慣、観念などをいつも見落としているのではないかと思いました。例えばよく「ぼくはもとからこのような人だ」、「わたしはせっかちだから」などと言い、自分ではごく当たり前のことだと思い、タイムリーに法に照らし、法で量ろうとしません。

 また一部の執着心は自分ではもう放下し、取り除いたと思っているのに、実は徹底的に放下できておらず、きれいに取り除かれていません。これは煉功の時に体の一部の部位が基準に達しておらず、完全に緩めていないことと同じなのです。同じく充分に演煉されることができません。

 以上は自分の次元で悟ったことであり、同修のみなさんと分かち合います。法に則っていない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「三、動作の仕組み」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/2/433149.html)
 
関連文章