「大法は厳粛である」についての悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年10月2日】修煉とは、人が修煉することであり、人であれば人間の体があり、人心があり、少しでも自分の主意識を緩めると、他の生命にコントロールされることがあります。例えば、私たちは学法する時、真剣に行わない場合、怠惰な心にコントロールされます。師父は私たちが功を得るように要求しておられますが、この時、私たち自身は本当に功を得られますか? だからこそ私たちは学法に対して、真剣に対応しなければならないのです。学法をする時、しっかり行わない場合、実は真の修煉になってはおらず、自分にも責任を持っていません。

 しっかりと学法をしていれば、上に向けて向上することになり、しっかりしていなければ、法理を得ることはできず、下の方に落ちます。

 煉功も同じ問題があります。真剣に煉功する時は、雑念もなく、煉功が終わったら、体が軽くなり、とても元気だと感じます。逆に、真剣に行わない場合、煉功しても、煉功しなくてもあまり変わりません。だから、ここで同修たちに注意しておきたいのです。煉功する時、単純に仕事を行うことだと思わないでください。それはつまり、煉功しても、煉功してないのと同じになり、さらに逆効果になるかもしれません。多くの人は坐禅する時、寝たことになります。ですから、どういう態度で煉功するのかがとても大切であり、そのことによって効果が異なります。

 一部の学習者は発正念の時、姿勢が正しくなく、掌をしっかり立てておらず、集中していません。これは修煉に対して、厳粛に対応していない問題なのです。

 ずっと真剣に対応することは、少し難しさがあるかもしれません。しかし、修煉は一歩一歩、向上すべきなのです。さらに魔難の中で修煉することもあり、難しさがなければどのように向上しますか? ここで、このような問題がある同修に、「困難に直面し、困難を克服するよう、乗り越えられるよう、しっかり対応するように」と勧めます。師父は「大法は厳粛であり、修煉も厳粛であり、子どもの遊びではありません」[1]と説かれました。修煉に対して真剣に対応し、細かい所にもしっかり対応すべきです。このようにすれば、大法の修煉が難しくなくなり、魔難の中で修煉することもなくなり、すべてが順調になります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『米国東部法会での説法』

 【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/18/449729.html)
 
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