極端に走らずに修める
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文/山東の大法弟子 

 【明慧日本2022年11月11日】師父は、「私は皆さんにワクチン接種をすべきかどうか、疫病があなたに与える影響について言っているのではありません。もう一方の極端に走らないでください。いずれも人心なのです。あなたに伝えているのは、あなたが常人の心で自らを量っており、修煉者の角度から問題を見るのではなく、これは修煉の中で漏れがあるということです」[1]と説いておられます。

 今回の師父の新経文に対して、物事を行う時、自分を正しい位置に置いて、極端に走らないという自分なりの理解が深まりました。

 ちょうど、職場で最近起こった二つのことも、この考えを検証できました。

 一つ目は、職場の放射線科にあるMRIは、システムの動作のパラメータを当直のスタッフが報告する必要があり、しかもそれを毎日行わなければならないのです。そのことを上司から知らされましたが、 携帯電話のWeChatはとっくにアンインストールして使っていないのです。これからどうしたらいいのでしょう?  再インストールをしたら、法理に合わず、インストールをしなかったら、仕事に支障が出て、上司の機嫌を悪くてしまいます。 私もたくさんの理由を探しごまかすこともできますが、これは真実ではありません。嘘をつくことになります。些細なことのように見えますが、これが落とし穴です!  いや、直接向き合わなければなりません。以前なら、私は遅延戦術で、どうしてもというときはたてつき、断ります。しかし、これらは全部党文化のやり方ですので、使ってはいけません。  どうすればいいでしょうか? よく考えてから、自分は修煉者なので、修煉者の基準に従うと決めました。 修煉者の基本は善人になること、善人らしく振舞うこと、常識のない行動をしないこと、変な人だと思われないことです。 ですから、心を鬼にして、流れに身を任せ、知恵を働かせてWeChatを使うつもりです。 私の考えは、古い携帯電話に、電話のSIMカードを入れず、会社のWi-Fiに接続します。報告用の写真を撮り、WeChatで、仕事のチャットグループに送信します。仕事が終わったら携帯電話の電源を切って会社に置きます。このように考えて準備をしていたら、 翌日、上司の考えが変わりました。当直の医療・看護スタッフが、昼間に報告することになり、私は報告することが無くなりました。

 二つ目は、私の住む都市でまた新型コロナウイルス感染が発生しました。 医療機関として以前は週に1回PCR検査を行っていましたが、私は1年以上経っても2回しか行っていません。いつも、上司に言われた時だけ行き、言われないと行きませんでした。 しかし、今回は違いました。 流行の発生後、PCR検査は1日1回しなければならず、市の衛生委員会に報告されます。やっても無駄、面倒なだけだと分かっているので、心理的にはやりたくありません。でも修煉者には修煉者の基準があり、PCR検査を受けるのは感染を恐れることではなく、常人の状態に合わせようと修煉するためです。 最初はこのように考えました。まず自分が修煉者として確定し、心の状態を調整し、翌朝、職場でPCR検査を受けました。すると再び意外なことが起きました。疫病の流行で職場は翌日、休みになったのです。看護師は、みんな市の健康委員会に各地域でPCR検査を行うために派遣されたのです。結局、この数十日間、私は今まで通りのシフトで働いているため、今までPCR検査を受けたのは一回だけでした。

 以上の二つのことは、いずれも、心を放下した後、事態は一転しました。 ですから、問題が起きたら、常人と同じように敵対的な態度を取ったり、張り合ったり、当たり前のように意地になってやったりしてはいけません。心を正し、さらに心を放下してこそ、物事をうまく処理することができます。 師父は問題にぶつかったら、まず冷静になるようにと教えてくれました。冷静になれば、物事を行う時、理性的にできます。 もうひとつは、自己の考えに固執しないことです。 あなたの考えは常にあなたの現在の考えで、そこには人間的な要素があり、必ずしも正しいとは限りませんし、極端な考えの可能性も十分にあるのです。 もし、私たちが逆らったり、文句を言ったり、極端な行為を取ったり、暴言を吐いたらどうなります? 小さなことが大きくなり、逆効果です。

 ある団地の同修が、毎日PCR検査を受けるようにと呼ばれても、どうしても行かず、そして娘さんに理解されず口論にもなったという話を聞きました。 私達は自分を迫害する人の立場で迫害を否定してはいけません。 なぜかというと、これは迫害を認めている、つまり迫害を求めているので、迫害を否定することができません。 そして「私はこれをしたら、必ずこうなる」という考えもいけません。 例えば、同修はよく、PCR検査を受けたら、必ず自分の身分がバレてしまう、必ず嫌なことを招く等……どんどん、いろいろなことを考えてしまいます。

 私たちは大法弟子であり、法の中で修煉する人であり、低い層の法理に制約されず、低い心性の生命に邪魔されません。どんな生命体も私達を支配する資格がありません。私達は師父の弟子で師父に面倒見られており、大法の法理に制約されるだけです。 だから正々堂々と物事を行えば、多くの観念、特に恐怖を打破し、多くの邪魔を排除します。また、不正な要素を解体することもできます。「一正が百邪を圧する」」[2]だからです。

 偶然に起こることはなく、その出来事には私たちの修練の要素があるはずです。 内に目を向ければ、答えが見つかるかもしれません。

 少し浅い認識ですので、不適切なところは慈悲をもってご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
 [2] 李洪志師父の著作:『転法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/2/443713.html)
 
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