人間関係のトラブル 自分に「私が間違った」と言い聞かせる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年2月17日】私は、修煉して20数年になります。最初は修煉とは何かが分からず、法を学んで、問題にぶつかるといつも「これは私の心性を向上させるため、業力を消すためなのだ。苦しみを恐れず、名利には淡泊に対処すべきで、善を保ち忍耐すべきなのだ」などと表面的に考えることが多く、修煉はとても簡単で分かりやすいと思い、幸せに感じていました。

 中国共産党の江沢民らによる大法への迫害が始まると、私は何度も迫害され、拷問を受けました。その過程で自分自身を修め、内に向けて探さなければならないことも悟り、自分の修煉の不足を多く見つけました。法理を深く理解することができ、同時に真面目に三つのことを行っています。このように数年続けたことで、修煉とは何か、どのように修煉すべきかが、すでに当たり前のように分かっていると思い込んでいました。大法修煉で数年間の錬磨を経験した大人としての私は、もはや無知な子供ではないと思っていたのです。そして知らず知らずのうちに自分の認識や教訓、一見良い人間の習慣、観念を用いて大法を理解してしまい、大法から乖離していても気づいていませんでした。

 例えば、内に向けて探すことについてですが、トラブルの中で自分をチェックすることは内に向けて探すことだと認識していたのですが、いつも事柄の表面だけを見て、自分は何も悪くないと思い、すぐに他人がどうのこうのと見ることが多いのです。例えば修煉する前、私の昇進や処遇は他の同僚よりかなり遅れていたのですが、コツコツと働いて争うことはありませんでした。これによって自分は名利に既に淡泊になっていると思っていましたが、その背後にあった無力感や不公平感、不満が間違っていることに気づきませんでした。なぜなら、その不平不満が当たり前だと思っていたからです。要するに、党文化の中で形成された「白か黒かの思考様式」、「敵に冷酷な態度をとるべき」等といった絶対的で極端な観念だったのですが、私はその自覚すらなく、善悪の判断がはっきりしていて正義感が強いのだと思っていました。このような状態では、トラブルがますます激化して解決できないこともあります。 例えば、姉が私の家に来た時、わざと仏教関連のものを大音量で流しました。音を小さくしてと何回注意されても聞かず、ついには口論になっていました。離れた地域に住んでいた姉は年に2回ほど来ていたのですが、ほぼ毎回このようになってしまい、次第に私たちの対立が深まり、解決できなくなったのです。

 一方で、私は明慧ネットの交流文章を常に読んでいるので、自分を修め、三つのことをしっかりやろうという気持ちも強かったのです。そしてだんだんと学法と修煉の中で「自分にも間違いがあるのではないか?」と思うようになりました。しかし、結局はいろいろな理由や言い訳をしながら、目をそらしていました。

 人を救うことは大法弟子の責任と考えましたが、私は人を救えないばかりか、逆に相手との関係をこじらせてしまいました。本当に自分の間違いを認めるしかなく、相手に対して無条件で「私が間違った」と言わなければなりませんでした。しかし、姉は和解を拒否しました。そこで何度も全力で挽回し、再三努力した結果、トラブルはようやく解決しました。

 その後、法を学び修煉する中で、大法は自分のどこが間違っていたかを悟らせて下さり、私は心から本当に間違っていたと認めるようになりました。その時、それまでの自分の考えと行動が修煉者に相応しくないことや、大法の要求に従わず自分を守っていたことに初めて気づきました。今後、人間関係でトラブルになったら、まず無条件に「私が間違った」と自分に言い聞かせます。

 最初は、「自分が間違った」と無条件に言い聞かせることはできても、当時の感覚はまるで心をえぐられ、骨身に染みるものでした。後になって、修煉とは自分を修めることであると法理から悟り、心からこのように自分に要求しました。また、大法を修めているからこそやり遂げることができ、これは師父からの教えやご加持、ご加護の結果であり、大法の威力であると悟ったので、このように続けることができました。

 その2年の間に、母は胸椎と足を骨折してしまいました。手術と数回の入院を経て、自宅での療養生活も長くなりました。術後の痛みは、耐え難いものだったようです。 姉も看病に来ましたが、姉自身も持病を抱えていました。そのため、洗い物や付き添いも、体力的な仕事のほとんどは私がやっていました。にもかかわらず、「あれもこれもちゃんとできていない」としょっちゅう言われました。例えば、母に必要な薬を買って来ると、「メーカーが違う」、「値段が高い」、「飲んだ後に気持ち悪くなった」などと文句を言われ、未開封の薬を返品しなさいとまで言われるのです。そして数カ月後、母は歩けるようになったので姉は家に帰りました。

 母のために買い物や料理をするのも私の役目でした。食材を買ってくると、母は「この野菜には農薬が使われているとあった」、「この野菜には添加物が使われている」、「これは遺伝子組み換えのものだ」などと言ったりして、また「これは食べてはいけない、あれも食べてはいけない」、「野菜の切り方と大きさが間違った」、「この料理は油が多い、これは塩が足りない...」などとよく言っていました。すべての事において、例えうまくできたとしても、ほんの少しの説明もできません。そんなことをすれば、さらに多くの不満と責める言葉を招いてしまいます。その後になんと「無責任だ」、「責任を言い逃れるのだ」と責めたてるのです。これはどういうことでしょうか? なかなか理解できませんでした。

 私がもし修煉していなければ、こんな風に扱われたら、何か一つの事だけでも喧嘩して、半月も口をきかず相手にしなくなるはずです。社会や職場での不公平について不満を吐き出す場がないため、相当なストレスが溜まり、性格がますます悪くなっているのに、家の中でも苦しまなければならないのです! 中国共産党の弱者をいじめ、強者を恐れる文化にかなり毒されています。修煉によって私の性格はだいぶ変わりましたが、このように扱われたら、やはり自分を落ち着かせる時間が必要です。相変わらず頑張っていたのですが、顔の表情に出ていました。

 しかし、無条件に「私が間違った」と言えるようになってからは、時には心がえぐられるような感覚がありますが、速やかに落ち着いてやるべきことができるようになり、支障なく母の面倒をみることができました。しばらくすると抑え切れないこともありましたが、一言二言つぶやく程度だけで終わりにして、穏やかな心境で母の面倒をみることができます。そして、怒りを抑えきれない状況はだんだんと少なくなっていきました。修煉前は、腹が立つと、自分が1カ月ほど出張したとしても、家族を無視し続けていました。当時の私の心は、非常に狭かったのです。

 学法と修煉を通して、私は如何なるトラブルにぶつかっても、まず無条件に「私が間違った」と自分に言い聞かせることができるようになりました。大法は絶えず自分の間違いを教えて下さり、私は本心からその間違いを認めることができるようになりました。 しばらくして、もし私が無条件に自分を修めていなければ、自分に存在していた多くの問題や欠点に気づくことはなかっただろうと気づきました。例えば、嫉妬心や顕示心、闘争心、人に言われたくない心、不平、不満、弁解、自分が正しい、強烈な自我などの執着を認識することができず、自分が正しいと思い込んでいるはずです。例えば姉との口論で、修煉ができている人なら、私の強い闘争心や、自分が正しい、魔性などが一目でわかると思います。私にはまた「あなたは自分の家でなら何をやってもいいが、ここで何の権利があってやりたい放題にするのか!」という嫉妬心もありました。修煉して2~3年の間では、自分のこの問題がまったく見えていませんでした。

 「無責任だ」、「責任を言い逃れているのだ」と言われた理由が、今になって少しずつ分かってきました。正直なところ、党文化に毒害された私は「責任」というものを意識していませんでした。人間としての良心や道徳観が多少残っているので、表面上は明らかに現代的な行動をとらず、他人の利益に手をつけたり害したりしないように気をつけていたので、問題ないと思っていたのです。しかし、修煉で無条件に自分に向けて探し続けるうちに、ますます利己的で自分を守る強烈な自我が見えてきました。以前の私は、権力や手段を使って私利私欲のために暗闘したり、自分の利益を損なったりすることに対して怒るしかありませんでした。誰かに責められると、口では言わなくても心の中で抵抗し、しかも「正当な理由」を持っていました。長年の修煉を経ても自分の強い自我と自分が正しいという執着に気づくことができず、自分はうまくいっていると思っていました。

 強い利己心と自我を認識した私は、「責任」について少し悟りました。責任とは、相手の立場に立って真摯に考え、相手の良知と善を啓発し、自分の利益や命を犠牲にしても心から相手を大切にすることです。ここまで達するには真の無私無欲が必要です。そして、長年の大法修煉の中でのことを思い出しました。私は大法のために北京に陳情した後、迫害・洗脳され、不当に拘禁され拷問されました。また、人々に法輪功への迫害の真相を伝えるにあたってぶつかった困難や、江沢民を告訴することや他のあらゆる魔難とトラブルの中で、真に他人のために考え、法に則ってどのように認識すべきか、どのように行うべきかについて考えました。その過程では時に心の煉磨があり、難しく、苦しいものでしたが、修煉の決意が動じたことはなく、最善を尽くしたときに大法から与えられた知恵と威力によって、最後にはすべての危険を克服することができました。大法の弟子にとって、「責任」がいかに重要であるかに気づかされました。

 トラブルの中で私が無条件に自分の内心から探すことができなければ、具体的な事柄について解釈したり、正しいか間違っているかを論争したりすることにとらわれ、実は自分を守ることに執着し、自分にも他人にも、そして修煉にも本当に無責任になってしまうのです! 家族とのトラブルはすべて誰が正しいか間違いかの問題ではなく、すべてが私の修煉を助けてくれているのだと悟りました。

 大法は、私が修煉者の高い基準で自分に要求したくないことを教えて下さいました。今までは、三つのことをできるだけ心を込めて行っており、自分にかなり厳しく要求してきたのだから大丈夫だろうと思っていたのです。しかし法を学び、修煉していくうちに、高い基準で自分に要求したくないことがよく分かりました。自分のいわゆる「自分に厳しくした」には前提条件があり、自分が重要だと思うことや、自分ができることに限って自分に厳しく要求していたのです。自分ができないこと、重要だと思わないこと、理解できないことに対しては、現状に満足し、自分を変えようとしないことが多いのです。問題が差し迫ってくると、やはり文句を言ったり不満を感じたり、面倒臭がり、避けようとしたりします。例えば、長い間、明慧ネットに関連するパソコンの使い方の習得についても言い訳をして実行せず、他人への依存心を放任していました。背中を押されて少しの変化もありましたが、また現状に満足して停滞しました。この背後には、私が長年気づかなかった様々な執着、観念、習慣などがあります。

 師父の経文『目覚めよ』は、私たち大法弟子や学習者が皆、理性的ではっきりとした認識を持って、残りの少ない法を正す修煉の最後の道を正しく歩んでほしいという願いが込められているのです。私たちはどの次元、どの境地にいても、どのように認識しても、大法修煉者の心で師父の説法を大切にし、師父の私たちへの期待を大切にできるよう願っています! 法を正す時期の修煉の機縁を大切にし、理性的で冷静さを持つことは自分を大切にすることでもあり、衆生を大切にすることでもあるのです!

 個人の心性と理解は限られているので、同修の皆さんのご指摘をお願いします。 ありがとうございます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/1/28/455325.html)
 
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