文/台湾の大法弟子
【明慧日本2023年5月28日】最後に残っている限られた時間を有効に使って「3つのこと」を行うことは、同修のみなさんは誰もが知っています。今回は、周りの同修たちの修煉に見られる小さな問題点について、自分の認識をお話したいと思います。
一、発正念について
いまだに発正念をする時、掌が倒れてしまう同修がいます。それについて言い訳は様々で、仕事が多く、寝不足だと言う人もいれば、今日は調子が悪いと言う人、掌が倒れていること自体を否定する人、努力したが変われないと言う人、発正念のやり方が分からないと言う人もいます。ほとんどの大法弟子がこのような状態を経験したことがあると思いますが、その中には努力して状態を正した人もいます。 修煉者に必要なのは、ゆるがない心ではないでしょうか。粘り強く克服するように努力すれば、必ず掌が倒れる状態から抜け出すことができるはずです。なぜなら、師父の法身は私たちの周りにいらっしゃるからです。「修は己にありて、功は師にあり」[1]。これは師父と法を信じるか信じないかにも関わってくると思います。「三つのこと」のうち、発正念をするのは、最も力も要らず、簡単なことですが、それは大法弟子が鬼や悪魔を退治する強力な手段なので、重視しなければなりません!
集中して発正念をした後は、調子がとてもよく、心地よい気分になります。これは、発正念をするにあたって、一番良い状態だと思います。
二、学法について
法をしっかり勉強しなければ、正しく悟ることができません。法を正す最後の時期となりましたが、いまだに法が修煉者へ求める基準の厳しさを意識せず、いつも同じ次元に止まり、向上できていない同修がいます。このようだと難関が来た時、それを乗り越えることができません。彼らは学法をする時も、発正念する時と同じく、集中できず、法が心に入りません。どうしても集中できないときは、雑念を払い、法を暗記したり、写経したりと、さまざまな方法を採らねばなりません。これを聞くと、同修の中には「面倒くさい、そこまで気を長くすることはできない」と言う人もいるかもしれませんが、これこそ、修煉者が取り除くべき執着心ではないでしょうか。快適に過ごすということは修煉なのでしょうか。
三、煉功について
『大圓満法』では、各功法で達するべき状態を記しました。煉功する時は、体操のように筋肉や骨を動かすだけのようにしてはならず、注意を払わなければならないものであります。煉功においてどうやれば完璧なのか言うのは難しいことですが、「煉功に集中する」ことは一番重要で、理解もしやすく、やりやすいことだと思います。集中さえすれば、師父の法身が私たちの動作を整えてくださるのを感じることができるのです。ところが、煉功の動作をしながら、周囲を見渡し、周囲の様子に注意を払う人がいます。これは、煉功が邪魔されるのも気づかず、それに付き合っているのではないのでしょうか。煉功するにあたって、私たちは無頓着になってはならず、そうでなければ煉功する意味はあまりないのです。
四、真相を語るについて
最後の方になればなるほど、自分が取り残されるのを恐れて、いろんなプロジェクトに積極的に参加している同修たちを見かけます。しかし、自分がそのプロジェクトに合うのか、生活のバランスが取れているのかも考えず、ほかの人がこれが大事だと言ってあれもこれもやっている人がいます。人を救うプロジェクトはどれも大切ですが、全てに関わる必要があるのでしょうか? 一方、「真実を語る」ということは、誰もが心がけるべきことだと思います。「このプロジェクトに参加しないと、法を正す進歩についていけない」という同修の声をよく耳にしますが、このプロジェクトに全員が参加すべきだというのは、あまりにも絶対的なことではないでしょうか。 何をするにも修煉者である以上、心を込めれば、人を救うための力は大きくなるはずです。 何でもかんでもやろうとしたり、あれをやってこれを失ったりするのは、かえって自分の修煉が足りていないところでもあります。
上記はいずれも小さなことですが、小さなことだからこそ注目されず、その分、修煉がしっかりできていないように感じてしまうのです。 だからこそ、大きな難関の時に正念を持って乗り越えるようになるには、普段の修煉の中でしっかりと修めることが不可欠です。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』