師父の最新経文を学んで悟ったこと(二)
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2023年9月10日】(前文に続く)

 三、無条件に大法に同化し、怨恨心を生じさせない

 一部の人は、自分の思い通りにならないこと、自分に合わないこと、自分の考えや観念と一致しないことに遭遇すると、それを外に押し出して、他人の理由を探し、さらには不満を感じる傾向があります。これは本当に残念なことです。

 私たちが遭遇する厄介なことにはすべて因縁関係があり、自分自身の原因によって引き起こされているので、まずは自分の原因を見つけるべきです。「トラの首の鈴はつないだ人でないとほどけない」と言われているように、問題の根本的な原因を見つけてこそ、はじめて解決策を見つけられるのです。

 修煉の角度から見れば、「修煉は、魔難の中でこそしなければなりません。七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません」(『轉法輪』)と説かれています。

 どんな悪いことも修煉の中では良いことになる可能性があります。思い通りにならないことや、困難、魔難に遭遇することは、まさに自分を向上させる機会であり、内に向けて探す良い機会であり、修煉において歩むべき道であり、不平を言ったり、怒ったり、恨んだりするべきではありません。

 他人と衝突するときは、一歩下がって世界を広げることができるかどうかを考えるべきです。自分の意見が受け入れられなかったり、批判されたり嘲笑されたりしたとき、自我を放下して謙虚にそれを受け入れることができるかどうかを考えるべきです。不当な扱いを受けていると感じたり、辛くなったり、怒りを感じたりした場合は、「それが法に則っているかどうか、なぜ怒っているのか」と自問すべきです。

 私の個人的な理解では、修煉においては、どんなに不当な扱いを受け、傷つけられたと感じても、外に目を向けるべきではなく、自分自身を探さなければならないと思います。法の要求に従って行動し、自分の内に向けて探し、真・善・忍の大法に同化することは無条件で、どのような不公平、どのような傷、どのような個人の尊厳、どのような仕事やプロジェクトへの影響も言い訳にしてはなりません。

 修煉者にとって特に怨恨心があってはいけません。他人を恨むことは、多くの場合、個人的な私利私欲、嫉妬、自分の要求が満たされないことによる心の不均衡が原因です。常人の中でさえ、「栄誉と恥辱に動じない、物では喜ばない、自分のことで悲しまない」と言っています。また、ある人は他人が自分より良い人生を過ごすことを願って、「あなたが私より良く生きている限り」という歌を書きましたが、修煉者がどうして自分の損得を放下できず、人間のものに執着し、他人を嫉妬したり恨んだりしますか?

 他人を恨んでいる人は外に目を向けているだけでなく、自分自身の心を駄目にする非常に邪悪な要素を持っており、冷静かつ理智的に問題を考えて解決することが困難になります。

 逆の方向に行ってしまった人の多くは強い嫉妬心や恨む心を持っています。

 『轉法輪』で「それを悟らない人は、佛を拝んでも効果がないとみて、『どうして助けてくださらないのですか? わたしは毎日これだけ線香を立てて拝んでいるのに』と言って、佛を恨み始めました。なかにはそれが原因で佛像を壊し、その日から佛を罵るようになった人もいます。一度罵ると、心性が堕ち、功もなくなってしまいます」のように、最後に、自分自身を壊滅してしまうかもしれません。

 四、もっと法を学び真に修煉し着実に修煉し、初心貫徹する

 師父は私たちにもっと法を学ぶようにと何度も警告されました。実際、師父は私たちが修煉する際に遭遇するあらゆる問題や妨害について、すでに法の中で私たちに教えてくださいました。もしそれがうまくできないのは、それは本当に私たちが法をよく勉強しておらず、法を本当に心に刻んでいないからです。

 師父の新経文に述べられている問題の人は、少し心を静めて師父の説法の数節だけでも勉強すれば、問題を見つけることができます。長期的に陥って、まだ目覚めることができない人は、自分の修煉がどれほど緩み、後退したかを想像することができます。

 すべては物質であり、私たちが見たものは作用するはずです。常に心の中に法があるなら、絶えず法に同化することができます。

 師父は私たちに「邪悪なウェブサイトを聞かず、信じず、見ないように」(『精進要旨三』「師が法を正すことを手伝うとは何か」)と警告されました。反対側に行ってしまい、他人の意見を聞くことができず、引き返すのが難しい人たちに居場所を与えず、人心や、人間の考え、人間の情を用いて問題を見ないでください。なぜなら、その背後にある要素が私たちには明らかではないからです。

 師父は新経文『大法修煉は厳粛である』の中で、「この肝心な時期に、同調する人はすなわち、対象であり、目的はその人を淘汰するためです。これは旧勢力が背後で現在、問題を起こす人を利用していることの本当の原因です」と説かれています。修煉は本当に厳粛です。一念が間違ったら、これまでの努力が無駄になる可能性があります。

 法を得た最初の頃、歩いているときも自転車に乗っているときも、いつも頭の中で法の内容を考え、覚えた法を唱え、時間があればすぐに法を勉強したことを覚えています。その後、プロジェクトに参加することが忙しくなると、毎日一講しか学べず、さらに忙しいときは一講も保証できないこともありました。それを考えると恥ずかしくなります。

 師父の最近の二つの経文は、再び私たちに警鐘を鳴らしました。私たちは法をもっと学び、真に修煉し、着実に修煉し、最初の頃と同じように精進し、しっかりと自分を修め、絶えず法に同化し、師父が私たちに与えてくださった機会を大切にし、自分が歩んできた修煉の過程と、この万古の機縁を大切にし、そして創造主とすべての衆生の期待に応えます。

 個人的な見解ですので、不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 (完)

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/4/464907.html)
 
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