学法する際、心が静まらない原因を見つけ出すことこそ向上する機会
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年9月27日】心を静めて学法できないことについて、同修らはよく交流します。私が考えるには、心を静めて法を学ぶことができるか否かは、坐禅する時に入定できるか否かと同じことであり、どちらも清浄心の問題であり、功力の現れであると思います。心が静まらない状態から、静まるまで努力する過程は、日常生活で着実に修める過程とほぼ同じです。どちらも絶えず自分の執着心と常人の観念を見つけては、それを取り除く過程です。それによって心が静まるようになります。しかし、学法の際、心を静めることができない様々な状況に遭ったとき、多くの人はその原因を探さず、ただ人を悩ませる妨害として扱います。実際、学法の際、心を静めることができない原因を見つけ出したら、それはすべて向上する貴重な機会となります。

 以下は私が学法の際によく遭遇した問題です

 1、学法の際、いつも気が散り、気が付いて集中しますがすぐにまた気が散ってしまいます。周りの多くの同修たちも、このような状況によく遭遇すると言いました。一時的に気が散ってしまう状況は往々にして、大きなことによって生じたのではなく、些細なことによるものです。その時、通常2つの原因があります。一つ目の原因は、非常に些細なことで、例えば「法の勉強が終わったら、家事をしなければならないが、何をどのようにしようか、何時までやろうか等々」です。2回も散った思惟を取り戻したのに、また気が散ってしまいました。実は気が散ってしまった時、私が考えていたものは自分が執着していることでした。例えば、これからやろうとしている些細なことが執着となり、法の勉強を妨げたのです。その時、私は真剣に自分自身に問いました、「学法をして向上することと常人の生活の中のこれらのこと、どちらを取るのか?」この質問を自分に問いかけた時、私の心はすぐ穏やかになりました。この現象は繰り返し出てきますが、実際には正念を強め、心性を向上させる過程です。心性と悟りが向上すれば、この問題もなくなり、気が散るという問題は少なくなります。

 2つ目の原因は、学法に対する心構えが間違っていることです。潜在意識の中で、仕事を終わらせようとする心がありました。この執着は私が法を学び、法を得るのを妨げるのに十分でした。毎日法を勉強することは修煉者がやるべきことです。しかし、本当に法を学ぶ時、仕事をやり遂げようとする気持ちで学ぶわけにはいきません。むしろ、私たちは本当に法を学び、法を得るという心構えでなければなりません。それに気づいたとき、気が散ってしまう問題はすぐに解決されました。多くの同修は、気が散ったことに気付いたとき、ただ意識を戻すだけに留まりますが、実際は、向上する機会です。

 2、法を勉強している時、でたらめなことを考えるのは、隠されている執着を思い出させるためです。最初、私はこのようなことはいつも妨害として扱いました。それは私が心を静めて法を学ぶことに影響したからです。しかし、何回か繰り返して現れた後、驚いたことに、それらのでたらめな考えは、法が隠れた私の執着を思い出させているということに気づきました。一度、法を学ぶと、私はいつも心の中で、かつて起こったことを思い出しました。私はそれに気を取られました。その時は、長い間それらの画面に没頭することになりました。時にはそれは実際に起こったことではなく、憶測や憶測に似たようなものでした。我に返っても、また引き続き考えます。しかし、実際には、それが過去に起こったのか、自分で想像したのかにかかわらず、この時点で、これらのことにおいて、向上する機会を見逃していないかどうかを慎重に確認する必要があります。また、何かうまくできていなかったことがあるのか、気づいていない執着心はないかなど。通常、この時、これらのことを脳裏で真面目に分析し、修煉者の基準に、1つずつ照らし合わせます。時には、その画面を見て腹が立ったり、憤慨したりすることがあります。さらに嫌な人のことさえ考えてしまいます。これらはすべて私が気づいていなかった執着心でした。法が私にアドバイスし、教えてくれているのです。この道理がわかった後、私はこの機会を利用して、自分のたくさんの執着心と観念を掘り出しました。

 3、睡魔は私たちが法を学び、法を得ようとする決意を試します。私は本を手に取ると、眠くなってしまう時期がありました。とても「眠い」ので、目を閉じたら、すぐに眠りに落ちてしまいたいくらいでした。後になってこの状態は間違っていることに気づきました。その時はそれが睡魔だとは気づきませんでした。最初は眠い時はまず寝て、起きてからまた法を学びました。しかし、このようにしていては、その日の法を学ぶべき量をほとんど終えらせません。しばらくしてから、このように法を学ぶのは法を敬うことではないと気づきました。毎日法を学ぶ量を終わらせなければなりません。「眠い」問題を克服する方法をいろいろ試してみました。清涼油や風油精を塗り、冷水で顔を洗う等々、考えられる方法をすべて試しました。 3、4日後、あまりの眠さに吐き気がしました。そして、清涼油をいっぱい塗りました。とにかく心の中で思ったのは「どのような状況下でも、毎日自分で決めた学法量をこなす心に動揺することはない。しかも、私は心を静めて学法をし、法を得るべきだ」という一念だけでした。 清涼油は目に少し刺激があったので、冷水で顔を洗いました。顔を洗った後、私は本を手に取り、学法を続けました。私のこの一念は確固たるものでした。ほんの数行しか読んでないのに、睡魔が私の前に立っているのが見え、私にうやうやしくお辞儀をし、こう言いました。「私はあなたを尊敬します」と。そして彼は礼儀正しく数歩後ずさりしました。そして私から少し離れると、向きを変えて立ち去りました。(これは古代人にとって非常に丁寧な別れ方です)私の眠気はすぐに消えました。そしてその日から、法を学ぶ時、眠くなくなりました。法を学ぶ前に眠くて、目を開けることができない場合でも、本を手に取って法を勉強しはじめると、すぐに眠気はなくなります。

 修煉過程で遭遇するこれらの妨害やトラブルを、障害と見なすべきではないのです。これらは実際、我々の意志を錬磨させ、向上する機会を提供するために存在します。修煉にとって、それは良いことであり、私たちが向上するための段階となります。

 4、人間の観念を持って、法を学んではいけません。すると観念により法が覆い隠され、法の内包が見えなくなり、法を学んでも法を得ることができなくなります。かつて一度法を勉強していたとき、私は幼少期に要約した「生命が貴いか、卑しいかは大きさによって区別されない。最高の自分であることが生命の最大の価値である」という経験談を思い出しました。この考えは急に私の思想の中から出て金色の法を覆いました。その時、見えるのは私のこの観念であり、法の内包ではありませんでした。私は驚き、これは法から得たものではなく、常人の中から得た概念であることにすぐに気づきました。修煉を指導できるものではありません。これに気づいたとき、私の観念は金色の法から取り除かれ、法の内包が再び現れました。

 人間の心、人間の観念を持って、法を学ぶなら、学んでも法を得ることは難しいのです。法が人間の観念によって覆い隠されてしまうからです。長い間学法しても得たものは自分の観念であり、それでも自分がやっていることが正しいと思ってしまいます。これは最も厄介で、あまり目立たないものです。常人の観念が重い人にとって、それは障害になります。観念は山のようなもので、人々が法を得るのを妨げます。

 私の周りにもこのような修煉者がいます。毎日法を勉強していますが、問題に遭遇すると、自分の経験と常人の観念を使って対処します。間違っていることに気づいていないだけでなく、それを素晴らしい修煉体験として捉え、同修たちに広めていました。「問題に遭遇したとき、解決方法がわからない場合は、常人の中の理で指導するべきです。なぜなら、常人の理も法によって作られたものだからです。私たちが常人の原則に従って行動するとき、私たちはまた法の原則に従って行動していることになります。それは法にも符合しています」と。この言い方を初めて聞いたとき、私は理にかなっていると感じました。しかし、それを真剣に分析すると、人間の理に従って実践するのなら、いくら修煉しても常人に過ぎないのです。ある人は仕事をする際、法に則ってないのではないか、と他の人に質問された時に「仕事は仕事、生活は生活、修煉は修煉です。これらを混同しないでください」と答えます。人間の観念で法を学ぶといくら学んでも、常人であることに変わりありません。このような人は大法弟子の中にいますが、法の中にはいません。法を学ぶとき、常人の観念を捨てなければなりません。心を静めて法を学ぶ過程で、法の勉強が確実にでき、観念はますます少なくなります。

 まとめ

 私たちが持つべき境地は心を静めて法を学ぶことです。しかし「妨害」は常に存在します。なぜなら、修煉者には執着と観念があり、認識しなければならないさまざまな問題があるからです。これらの「妨害」は、私たちが自分自身をより早く向上させるのに役立ちます。したがって「妨害」が現れたら落胆せず、真面目にその原因を探り、法が与えたアドバイスを受け止めてください。真の学習者として、最後の道をしっかりと歩みたいと思うなら、毎日粘り強く法を学び、法を得なければなりません。法を学ぶということは、法に同化し、法に溶け込むことです。私たちは皆、師父によって地獄から掬われたのであり、我々の最初の修煉状態と実はほとんど同じです。誰も誰よりはるかに優れているということはありません。私たちの修煉の高さと状態を決めつけるのは、誰がより積極的に法に同化できるかということです。これが、後に、学習者の間に差が開く原因です。

(編集責任者:文谦)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/7/22/463105.html)
 
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