執著心を見つけ 再びインターネットに接続
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2024年4月4日】これまで私は常にインターネットの接続に関して、ずっと順調でした。最近、同修がインターネットにアクセスできなくなったので、資料のアップロードとダウンロードを手伝ってほしいと頼まれました。私は承諾しましたが、その晩はなぜかインターネットに接続できませんでした。夫が色々なネット規制を突破するソフトを試しましたが、それでも接続できませんでした。

 この数日、学法した際に、こんな一節がありました。「修煉の中で、修煉者は終始一貫して同じ状態を保ち、ロケットのように向上し、精進の中で自身の異なる次元を充実させることができないため、様々な状態が現れました。旧勢力もこの環境をかき乱し、人心を試すなどなどのことを仕出かしています。これだけではありません。」(『各地での説法十二』〈二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法〉)

 私は、この困難がなぜ起こったのかを理解しました。精進して乗り越え、修煉によって得た功を現在のレベルに充たしていく必要があるのです。

 あの晩、インターネットに接続できなかったのは、私が常人の心を持ったからです。その前に、私はある祝宴に参加したのですが、そこで会いたくない人を見かけました。家に帰って姉(同修)に電話して、「今日は気分が優れない」と言ったのですが、姉は特に何も感じていないようでした。母が亡くなったことは、その人の行動と無関係ではありませんでした。私は彼に対して怨恨や嫌悪感を抱いていました。彼を見ると、母への思いが湧きあがり、心が詰まりました。そのため、夕食後にインターネットに接続しようとしても、どうしても接続できませんでした。しかし、分かっている側(理性の面)の私は、あの出来事が母の生死に対する試練であり、その人は旧勢力に利用されているに過ぎないと理解しています。

 母は1996年に大法を始めました。名利に執着せず、放下できましたが、子供たちへの情を旧勢力に利用されて、乗り越えられない死の関となってしまいました。私は、師父の説法を思い出し、自分の修煉がしっかりしていないこと、精進とは言えないことを痛感しました。どのように向上すれば良いのか、どのようにすれば出来るのか、心の中で考えました。

 姉も同じ日にあの祝宴に参加していましたが、彼女は「その人」を見かけなかったと言いました。私はそれを聞いて、これは興味深いと思いました。彼女は見かけなかったと言いましたが、これを私に聞かせるためではないでしょうか? 私も見かけなければ怒らなかったでしょう。しかし、私はその人を見ました。なぜ心が動いてしまったのでしょうか。

 夜に法を聴き、これは全て人間関係の因縁であると悟りました。これは情に動かされたのではないでしょうか? 修煉者は心が動じてはならず、私はそれを実行しなければいけません。

 修煉中に出会ったことに対して、自分ができることをやるべきであり、そして、他人がどう振る舞うかについて形成された観念を捨てなければならないと悟りました。彼や彼女が良いか悪いか、好きか嫌いか、これらは執着心です。他人を見下していては、どうやって人を救うのでしょうか? 自分の使命を忘れてはなりません。

 午後、再びインターネットにアクセスを試みましたが、やはり接続できませんでした。異なるネット規制を突破するソフトを試しても駄目でした。その過程で、師父の説法を思い出しました。「非がないことは人心であり、心があることは悲ではない」(各地での説法五、『二〇〇四年米国西部法会での説法』)

 「悲」という字は「非」を取ったら、「心」になりますので、「心」という人心があると、「慈悲」は生まれません。昨日の出来事は、私が慈悲心を修めるように按排されたものではなかったのでしょうか?! これは私が人心を捨て去るように試練を与えられたのではないでしょうか?!

 そう思って、普段使っているネット規制を突破するソフトに切り替えると接続でき、明慧ネットを開くことができました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/29/474645.html)
 
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