明慧法会|私の修煉体験
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年4月20日】私は1997年から法輪大法の修煉を始めました。このプロジェクトチームの法会の機会を借りて、修煉におけるいくつかの体得を同修の皆さんと交流したいと思います。

 法を勉強する

 私の修煉中における大きな挑戦は時間がないことです。私はフルタイムで常人の仕事をしており、特に通勤は車で片道1時間かかり、限られた時間は押しのけられてさらに少なくなります。この貴重な2時間を無駄にしたくなかったので、車を運転している時に師父の講義録を拝聴して、これまでに3カ月の時が過ぎました。しかし3カ月の終わりの頃には集中できず、毎日講義録をかけていても少ししか耳に入らず、説法の録音を聞くことが表面的なものになってしまいました。自分の心が不浄であることがわかっていたので、これを何とか突破したかったのですが、修煉があまりにもダメで、説法の録音を聞くことにどんなに集中しようと努力したくても、集中できませんでした。

 ある日、同修が法の暗記の心得を交流しているのを聞き、大いに教えられました。恥ずかしい限りですが、長年の修煉にもかかわらず『轉法輪』を一度も暗記したことはありませんでした。しかし今までたくさん通読してきたので、実際『轉法輪』の中の文字はすでによくわかっていました。当時「車を運転している時に法を暗記できる!」という念がどのように生まれたのかわかりませんが、妻にこのアイデアを話すと、妻はよいとも悪いとも言わず「なにしろ車の運転は集中力が必要で、安全が第一です」とかえって、注意されました。

 どうであろうと私はまず試してみよう、もしかしたら出来るかも知れないと思い、すぐに実行しました。まず簡単な台を買ってきて携帯電話を置き、その台をハンドルの近くに置き、こうすれば顔を動かす必要はなく、目で一瞥(いちべつ・ちらっと見ること)すれば携帯電話のモニターを見ることが出来ると思いました。そして、携帯電話で法輪大法のウェブサイトにある『轉法輪』を開き、「読書方式」用に表示の設定をし、これで準備が整いました。

 1日目は『論語』から始めました。第一講は以前に暗記したことがあるので、よく知っており、1日で第1節を暗記しました。法の暗記は車の運転に影響を与えないばかりでなく、頭の中の雑念が少なくなるため、運転はかえってさらに冷静になりました。1日目の経験で私は多いに励まされ、こうして暗記を続けました。時には暗記し始めると障碍があり、ぼんやりとして感覚が麻痺し、考えは気だるくなって考えたくなくなり、十数分経っても一言も暗記できませんでした。私はこのような時は、決してダラダラとしたり、放棄したりしないで焦らず、たとえどうであっても1段落暗記できればよしとしました。実際は、数単語を暗記し始めることができさえすれば、混沌とした脳裏がはっきりとし始め、1段、また1段と暗記することができました。「修は己にありて、功は師にあり」[1] なので、自分が励みさえすれば、師父は私を加持してくださいました。

 さらに私は「学法の中で遭遇した障碍は、得てして自分の宇宙の中で、その障害が同化しなければならない部分があるために障碍が起き、障碍を突破すればこの部分の宇宙が大法に同化し、さらに自分の世界の衆生を救うのだ」ということを理解しました。

 もちろんこのような学法は、大法書籍を通読することに代えることは出来ないので、毎日頑張って通読しました。法を学ぶ時間を増やすと、再び妨害に直面した時は心の中の正念も強化されていました。

 仕事

 明慧ネットは、至る所に危機をはらんでいるインターネットの中でも、安全で順調に活動することができます。「我々は時々刻々、師父の慈悲と加持の中にいるのだ」ということをはっきりと実感しました。

 明慧ネットの早期では、我々はインターネットでの挑戦に気づきました。我々は海外にいますが、インターネットは国境を越えて、中国共産党の脅威は我々の所にもありました。小さい物ではウイルスを添付しているメールが発送されたり、大きい物では膨大な不正アクセスによって我々のウェブサイトを倒そうと企んだり、国家の資源を手中に握っている中国共産党という大ハッカーの各種の攻撃に直面しました。もし、師父の慈悲とご加持がなければ、我々は全く動かすことは出来ず、全く一歩も動けなかったでしょう。

 ウェブサイトが攻撃される度に、関係する技術者は直接大きなプレッシャーを受けて、事態が非常時にあれば迅速に対応しなければならず、長い時間持ちこたえなければなりません。さらに、しっかりとした気持ちを保持しなければならず、忍耐強く頑張り抜く決心と、大法に対するゆるぎない信念が求められました。他の同修も昼夜を問わず、皆頑張って絶えず正念を発し続け、大法弟子のこのプラットホームを保護しました。ある時、技術者が夜徹して作業して学法や発正念どころではなくなり、プレッシャーが非常に大きくなりました。協調人はこのままに放置してはいけないと見て、即断即決で技術担当の同修の作業を中止させると、すぐに全チームの同修を召集し1時間ほど一緒に学法をしました。学法を通してエネルギーを補充し、技術担当の同修に正念上と自信の上での支持を与えました。なぜなら、我々は「一つの全体」だったからです。

 事件後はいつも、技術担当の同修は内に向けて改めて考えなければならず、自分の修煉過程の漏れを探さなければなりません。なぜなら我々自身の空間場に漏れが現れた時だけ、中国共産党の妨害は一時的に目的を達する可能性がある」ことを知っていたからです。修煉は我々すべての作業の根本であり、修煉がしっかりして初めて、我々は引き受けた責任をやり遂げることが有効になるのです。

 理解と寛容

 私は「我々が修めているのは同じ大法で、同じ大法弟子であるが、多くの具体的な問題の理解においては、やはり大きな違いがある」ことに気が付きました。一つの物事についても「このようにすべきだ」とか、「あのようにすべきだ」とか、あるいは道理一つの認識に対しても、異なる背景、異なる知識、異なる角度があり、さらに異なる執着心があり、考え方においても差異がありました。それではどのようにすれば協調し連携することができるのでしょうか? 私個人の体験から言えば「理解と寛容」が非常に肝心なことになります。

 『米国中部法会での説法』の中で、「自分が出した質問が選ばれなかったので理解できない」とある修煉者が質問しました。師父は「もちろん選別を担当している学習者も修煉の人なので、修煉の中の重要な質問を選ばなかった可能性があります。これはあり得ることです」[2] と説かれました。

 私は「選別を行う同修は、法会に対して責任を負ったまじめさに基づいて選別作業を行っているが、私達はやはり修煉者であるために、三界の中での私の知恵はまだ限りがあります。さらに能力が低いともいえ、神のような大知恵にまで届かず、他の生命の思想状態を完全には体得できない」ということを理解しました。こうした状況の下で、行われた選別の決定は非の打ち所のない境地にまで到達できませんが、これは完全に理解できることです。「もしこの作業を他の誰かに行なわせたとして、誰が非の打ち所のないレベルで行なえることを保証できるでしょうか? 自分は完ぺきという程度で行えるのだと、もし誰かが本当に思っているならば、このことの複雑さを理解していないのかもしれない」と私は思います。

 実際他のことに応対する上でも、似たような道理があります。同修各自の認識は、その同修の自分の側の認識であり、私の認識と同じであるかもしれず、私の認識と全く異なっているかもしれません。もし私がこのことにおいての意思決定者であったとすれば、自分が心を静めて他の人の観点を聞けるように希望し、もし自分が納得しないことを聞いたとしても、直ぐに反駁してはいけないのです。文章を書くように進言した修煉者からすれば、文章を書いた人はその人の主観の上では「自分の認識が正しい」と必ず思っているからこそ、文章を書いたのです。そして私が他の人の考えを聞いてすぐに否定したならば、それは自分が、他の人の観点の後ろにある内涵を本当は理解できていないからかもしれません。

 もし、このことにおいて私が意見を出す側の修煉者であったならば、自分が意思決定をする同修の立場に立てることを希望し、自分の考えをできる限りはっきりと表します。理解されるか、聞き入れられるかについては、意思決定をする同修が法のために責任を持つという基点の上で、意思決定をする同修が認識し、最も素晴らしい決定を行うでしょう。

 しかし、修煉は時には複雑で、法を正す時期の修煉では自分の心性を保ちながら、人を救うプロジェクトに対して責任を負わなければならず、具体的な判断の中で1歩進めるべきか1歩後退すべきかは、得てしてそう容易く決めることは出来ないでしょう。しかし、もし大法に対する責任に基づき、さらには自我を捨てることができ、多く他人の気持ちを考えることができれば、行った決定に大きなずれが発生することはないでしょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『米国中部法会での説法』

 (2018年明慧法会の発表文章より一部の内容を要約したもの)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/9/370784.html)
 
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