文/海外の大法弟子
【明慧日本2024年11月8日】本文は、私たちの地域で神韻公演の劇場を申請する過程における修煉の体験交流です。
一、怨みに思い、不平を抱く心についての認識
私は「大法弟子として、自分の内面から反映される生命の状態は慈悲に達しているだろうか? もしまだ慈悲に達していないのであれば、少なくとも常人の社会において善意と愛の心を持って行動できているだろうか?」と自分に問いかけました。師父の法に照らしてみると、自分の修煉の状態が師父の求める善意と愛の心、そして慈悲からまだ遠く離れていることに気づきます。善を目指す大法弟子にとって、不平不満や怨む心は厳しく修めて取り除くべきものです。
師父は私たちに「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」(『精進要旨』〈境界〉)と教えてくださいました。嫉妬心は悪であり、怨恨心もまた悪であり、どちらも善を修めていない表れです。嫉妬心の表れは、他人が良い状態にあるのを見ると心の中で不満を感じ、他人が自分を超えることを許さないというものです。一方、怨恨心は多くの場合、自分の利益に関連していたり、他人の言動が自分の観念と一致しないときに生じ、心が不快に感じたり、不均衡や不満を抱いたりします。
心に怨恨が生じると、善意や愛の心と背反するため、慈悲の心を生じることは不可能です。心に抱怨や怨恨があると、善意や慈悲を欠いており、人を救うことができないばかりか、かえって人を遠ざけてしまう可能性もあります。
法に照らして自らを正し、間違いに気づいたなら、すぐに修正し、法に従って正すべきです。
二、困惑
私たちの都市の近くには、かつて神韻の公演が行われた劇場があります。その劇場は、神韻の公演要件を満たした比較的良い劇場の一つとされています。しかし以前、劇場側でいくつかの問題が適切に処理されなかったため、神韻の公演に不便をもたらしました。その後、同修たちは管理層の人々に法輪大法の良さと迫害の実態を伝える努力を重ね、いくつかの共通認識を達成しました。
ところが、劇場には中層の主任がいて、その人は神韻公演に対して友好的ではなく、同修たちの話によると、敵対的な態度をとることさえありました。その主任は非常に無法者で、私たちと管理層の間で合意された条件を覆し、神韻が再びこの劇場で公演を行うことができなくなる原因を作りました。
その間、同修たちの話では、この主任は人品に問題があり、一度決めたことを覆すことがあり、権限を越えて行動することもよくあるとのことでした。ある同修は、彼が神韻の人々を救うことを妨げていると考え、彼に対するクレームを劇場の理事会に書き送り、彼を劇場から辞めさせるように求めました。また、主任を辞めさせるために正念を発するよう呼びかける同修もいました。しかし、しばらくすると聞こえてきた結果は、その主任が劇場を辞めるどころか、むしろ権力を強めて昇進し、しばらくの間は上司の代わりに劇場の事務を処理するほどの権限を持つようになったというものでした。
師父は『二〇〇三年元宵節での説法』の中で、「このことを覚えておいてください。つまり、どこかに問題が現れたら、それは真相を伝える必要のあるところです」と教えてくださいました。
この劇場の中間管理職の主任に問題が発生したのだから、彼に大法の良さと迫害の実態を伝えることで困難を解決するのが当然ではないでしょうか。同修は「管理層にも真実を伝えたし、ある程度の共識も得られたのに、この主任が妨害をしています。ですから、発正念をして彼を離れさせ、そうすることによって、彼に業を造らせず、人を救う神韻を妨げさせないようにすべきです」と話していました。当時、私は、真実を伝えるとともに、自分たちも内に向けて探し、もっと自身を修めるべきだと思いました。しかし、私が直接関わったわけでもなかったため、自分にはあまり関係がないと思い、そのままにしてしまい、具体的にどこが間違っていたのか深く考えることはありませんでした。
今になって思うと、同修が「真実を伝えたけど、この主任はその場では良い返事をしても、翌日には態度を変えることが多い」と言っていたことを思い出しました。もし真実を伝えたのに効果が出ていないとしたら、彼のことは、私たち修煉者にとって一つの鏡で、自身の空間場の反映ではないでしょうか? そこに修煉すべき要素が含まれているのではないでしょうか? 自分の心性に問題があるかどうかを内に向けて探すべきだったのではないでしょうか? 主任の敵意な態度は、私自身が日常生活や行動において「真・善・忍」の基本である「善」を実践できているかどうか、また、彼の言行が一致しないところは、私が「真」に背いているかどうか、そして、彼の権限を越えての干渉は、私が「忍」を実践できているかどうかを反映しているのではないでしょうか? 他人の人品が悪いと不満を抱き、彼を軽蔑し、嫌い、そして「業を造らせず、他人を救うのを妨げさせないため」に「発正念」をして彼を退かせようとしました。そのように発正念が、逆効果を生む結果を招いたとしても不思議ではありません。
明慧ネットでよく見かける交流の中で、中国の修煉者が人々を救う心を持ち、大きな善と忍耐をもって警官を感動させ、その結果、警官が悪事を続けたくなくなり、最終的にはその職を離れ、迫害と関係のない仕事に移されることもあります。
個人的な理解では、中国の修煉者のこのような救いの大きな善と忍心は、一種の境地であり、それによって、警官が悪事をやめて善に従うことができたのです。これと、常人であるこの主任を解雇させるように取締役会にクレームを言い、さらに発正念して彼を辞めさせることとの間には、本質的な違いがあるのではないでしょうか?
電話で人々に大法を伝え、三退(中国共産党、共青団、少年先鋒隊からの脱退)を促す過程で、同修たちは「衆生の表れは、私たち修煉者の空間場の反映である」とよく交流がありました。電話を受けた人の中で「金をくれたら脱退するよ」と言う人もいますが、同修はすぐにそれを一面の鏡として、自分自身を反省し、内に向かって「利益への執着心があるのではないか」と探し、それを取り除きます。また「嫁を紹介してくれたら考える」と言われた時は、すぐに自分に色欲の心が隠れていないか探します。電話の向こうから騒いだり、真相を聞こうとせずに罵ったり、中共を擁護すると言う場合は、自分に争う心や、党文化の要素がないか探し、それを取り除きます。「私はあなたを救いに来た」という理由で上から目線で、他人の悟性の低さや品行の悪さを責めたり、彼らの様々な執着を見下したりすることはありませんか。それをすると、無条件で内に向かって修煉する機会を逃してしまいます。自身の執着を修煉して取り除かなければ、心性は向上せず、修煉者の功力も強まらず、救人の効果も想像に難くありません。
常人である劇場の主任が不親切や敵意、人品の良くない行為、権限を超える行為などを見た私たちは、それを自分自身を反省する機会として利用し、「真・善・忍」に符合していないところを修めるべきです。私たちが本当に修煉して向上すると、旧勢力は大法弟子に対する試練としてこの主任の役割の意味がないと感じ、彼を離させたり、異動させたりするかもしれません。しかし、このような結果はクレームを言って得られるものではなく、大法弟子が本当に「真・善・忍」に同化し、内に向けて修煉し、心性を高める過程で達成されるのです。
人間の次元において、不平は怨恨心の初期状態です。よく「羨望、嫉妬、憎しみ」と言われるように、怨恨心は、心のバランスが取れない、争い、「自惚れ」などから生じ、様々な悪い心を引き起こすこともあります。不平の心で「発正念」をすることは、大法弟子が「真・善・忍」に同化し、宇宙のすべての正の要素に責任を負うという初志とは大きく異なるのではないでしょうか?
さらに考えてみると、もし劇場の主任は私たちが彼の上司にクレームを言って、彼を解雇するように求めていると知ったら、あるいは私たちの不満が本当にその人の失業を引き起こした場合、その恨みは深まってしまうのではないでしょうか? もしそれが解消されなければ、どうやって衆生済度を語ることができるでしょうか?
私たちが取締役会に彼のクレームを言う時、それには強い争いの心や、悪で悪に対抗する党文化の要素が含まれていないでしょうか?
この主任がどんなに私たちが彼を悪いと思っても、彼もまた師父が救おうとしている命なのです。私たちがクレームを言い、彼を異動させることを求めるのは、師父が救おうとしている人を対立する存在や敵として扱い、その人を対立の立場に押しやってしまうことになるのではないでしょうか?
師父は「以前すでにお話したことがありますが、大法弟子にとって、修煉する人にとって、敵はありません。皆さんがやるべきことは人を救うことだけであり、常人の手段、常人の理で人を懲らしめたり、人に判決を言い渡したりすることは皆さんがやるべきことではありません。これは根本に関わる問題です」(『各地での説法七』「シカゴ市法会での説法」)と語られました。
三、目を覚ます
昨年の7月になると、同修たちは私が劇場のこの主任と連絡を取ることを望んでいました。私は何度もメールを送り、電話をかけてメッセージを残し、面会して話をすることを希望しました。当然のことながら、その目的はこの主任に真相を伝えることでしたが、何の返事もありませんでした。
当時の自分の行動や、メールを書いたり電話をかけたりする際の心境を振り返ると、どこかに隙があったのではないかと思います。よく考えてみると、その主任に対する否定的な印象を完全には取り除けておらず、鉄をも溶かすような慈悲の心で彼を救うという誓いを立て、彼の命の分かる一面と対話することができていませんでした。慈悲の心が十分でなかったのです。
その後、同修から市長に手紙を書いて圧力をかけることを提案されましたが、私はそれを避けられないかと尋ねました。ここでは、市長に手紙を書くことがいけないというわけではなく、その時の自分の動機を振り返ると、まだ不平不満の要素が残っており、市長の圧力を借りてこの人を変えようとする気持ちがあったのです。それは修煉者の善を修め、内に向けて探し、根本的に人への怨みや不満を取り除き、慈悲をもって彼を救おうとする願いを強めることとは異なっていました。
最終的に、市長にメールを送った後、返信があり、そのメールは劇場の臨時総支配人にも転送されました。おそらく、私たちがこの臨時総支配人に対しては偏見を持っておらず、真相を伝える心が比較的純粋だったため、臨時総支配人と会って真相を伝える機会を得ることができたのでしょう。会議の日、私たちは臨時総支配人とその助手に大法の素晴らしさと迫害の実態を伝えました。残念なことに、その主任は来ておらず、障害を解消する機会がなく、まだ多くの客観的な困難が克服できていないということです。やはり大法に符合していない考えや人心は真剣に修煉して取り除く必要があります。
大法弟子と常人の関係は、救済する者と救済される者の関係でしかありません。私たちは本当に常人に不平不満を言うべきではありません。それは自分を常人のレベルに引き下げることになり、気と気の間に制約がないように、常人のレベルに降りてしまうと、人を救うことは不可能です。
怨恨心は修煉者にとって大禁物であり、それを修めて取り除かなければならず、それを持っていては修煉を成すことはできません。大法弟子は「真・善・忍」を修める者であり、怨恨心は「真・善・忍」の特性に反するものです。
私たちは皆大法によって成され、他人のためのものです。慈悲の心で真相を衆生に伝え、彼らを救う手助けをすることが私たちの責任です。私たちには彼らを見下したり、敵視したりする資格はありません。人は非常に弱く、他の空間の悪い要素に支配されやすい存在です。私たちは善を勧めることしかできず、他人を変えることはできません。自分の心の中の善を守り続け、心性を高め、善意と愛の心を持って努力し続けることで、大法弟子の内面に反映された生命の状態、つまり慈悲の心を持つ修煉者になることができるのです。
以上は私の考えです。正しくないところがあれば、ご指摘お願いします。