考えた後、更に行動しなければならない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年11月20日】一部の同修と同じように、私は精進している修煉者ではありません。もっとはっきり言えば、私は師父の教えに従いたいのですが、常に自分の意気地のなさを痛感している修煉者と言えるでしょう。なぜ同修たちが行動に移さず考えるばかりで、足踏みをしているかを疑問に感じました。すべての問題の解決策が見つかるまで待ち、あるいは、周囲の同修たちが修煉し終えたことを確認してから、自分が実修に移せばよいという考えはあってはならないと思います、それなら、「迷いの中で悟り、迷いの中で修める」という師父の教えは存在しなくなるでしょう。

 師父は『シドニー法会での説法』の中で次のように説かれました。「ですから修は先にあり、悟は先にあり、見えるのは後にあります」修煉の過程においては、異なる次元と状態に応じてそれぞれの悟りや感じ取ったものがあると師父は幾度も私たちに説かれました。私個人の理解では、私たち大法弟子の修煉形式は、修煉し終えた一面が隔離され、他人が見ているのは常にまだ修めていない、修めなければならない部分です。もし、常に他人に目を向けているのなら、修煉はできません、誰にも目を向けず、ひたすら、自分を修めればよいのであって、人間の思想、思考方式、および文化の全歴史過程はこのように按排され、造り出されたのです。このように、人は乱世の中で、さまざまな観念の下で、逆になった人間の理を乗り越えてこそ、初めて大法弟子は成就することができ、常人もこの乱世の中で良知を呼び戻され、大法を認識できて、初めて救われるのです。

 大法弟子の修煉がいくら良くできていても、成就できた部分は大法の中の一粒の微粒子にすぎず、迷いの中で人身を持ちながら修煉し悟ったことは、なおさら微小で限られています。けれども、正しく歩んでいれば、自分が直面したすべての難関を切り抜けることができます。誰もその人に取って代わる事はできず、誰もその人のことを知ることができません。生命は皆違い千差万別です。師父はすべてを知っておられ、すべての生命を大切になさいます。それなら、なぜ私たちは師父の教えに従わないのでしょうか。私たちは師父の要求に従って行わないのでしょうか。

 師父の法の中から、しっかり学法すれば、すべてが解決できることを知りました。毎日本をたくさん読む同修はいますが、法さえ読めば自らを修めなくても済むという依頼心があってはならないと分かりました。常人の学生と同じように、教科書の知識を勉強しても、最終の検査はテストなのです。もし、毎日教科書を抱えていても、テストの時に何も答えられないのなら、習得したとは言えません。多くの師父の経文の中の文字の表面から理解できた法理に対して、私たちはどれぐらい実行できたのでしょうか。

 続いて、資料を作成するときの安全面について交流したいと思います。たとえば、安全になり、正念が出てきたら資料を作成すればいいと考えるなら、それは自分が何も失わないことを前提に大法の事をする考えだと思います。しかし、これらの事は大法の需要であり、大法弟子の責任と使命です。どうしても成し遂げたいという考えがあれば、どういうふうに成し遂げるのか、どのように理性と知恵を持って行うのかは法が私たちに知恵を与えてくださるはずです。行う過程でさまざまな状況や妨害に遭遇するのですが、これは修煉の中で執着心を取り除く機会と過程でもあると思います。

 旧宇宙の成、住、壊、滅の最終段階において、解体される現実に直面する生命にとって、幸運にも師父に救い済度され、幸運にも師が法を正す時期とともにいることができ、たとえ、今までずっと良く行えなかったにしても、残りの時間は私たちがよく行うための機会ではないでしょうか。

 同修の皆さんと同じように、自分を情けなく思う時があります。ある日、第二功法を行う時に、一念が表れて涙が流れました。しばらくして、この一念は正しくないと認識しました。法を正す時期の大法弟子として、師父は私たちにたくさんの恩恵をくださいました。仮に自分が1億人の大法弟子の最下位だとしても、自分のことを誇りに思い、大法弟子としての責任と使命を怠ってはなりません。この縁を大切にするならば、もし、この師が法を正す時期と一緒にいられる貴重な光陰を惜しむなら、たとえどんなに悟性が低くても、うまく修められなくても、一生懸命精進しなければなりません。紆余曲折を繰り返しても、結局、修煉の道をふさいでいるのは自分の執着なのです。

 今まで身にしみて感じたことは、明慧ネットを常に利用することはとても大切だという事です。明慧に掲載された交流文は認識の次元はまちまちですが、まるで毎日法会に参加しているようです。ある同修は明慧ネットを読む環境がなかった時に、明慧ネットを開くことができないと言いましたが、明慧ネットに繋がった時でも、あまり開きません。これは実は自分自身の修煉の表れだと気づきました。なぜならば、明慧ネットを読むことはまるで観衆のようで、自分が参与したり、同修と交流したり、自分の言いたいことを発言することができません、しかし、直接同修と交流することは自分の考えを言ったり、自己を表現することができます。しかも、いかなる制限を受けることなく、修煉のことであっても、そうでなくても交流できるのです。

 心性の関に遭遇した時、心を打ち明けられる相手は簡単に見つかりません、往々にして、思いとは裏腹です。難に陥っているときに、慰めの言葉をかけてほしいとか、何か近道を探したいとか、次元の高い同修の助けを借りてスムーズに関を乗り越えることを望みます。しかし、修煉することはこの世の逆の理から抜け出して、関と難は執着を突き破り暴露する機会で、心身共に耐えがたいものです。振り返れば、以前乗り越えられず、蓄積してきた心性の関は皆そうでした、難儀なことは自分にとって良いことで、修煉を高める良い機会だと見做さなかったからです。心身がつらく、乗り超えられない時は、まさに師父が私たちの石のような頑固な黒いものを取り除こうとされる時なのです。本当に辛くて今でもよく悔し涙を流します、でも涙しながら「忍びがたは忍びうる。行いがたきも行いうる」(『転法輪』)の言葉を思い浮かべます。

 難に遭うことは良いことだと師父は説かれました。昨夜私はずっとこのように考え、再び目を覚ましてまた考えました。深く心をえぐるかのような思いは本当に辛いですが、これこそ修煉であると師父に教わりました。自分が正しく歩むことができず、邪悪の按排と妨害に陥ったとしても、師父が按排された難の中にいるにしても、これらの機会を利用して認識を高め業力を取り除くことができれば、私たちの生命も確実に昇華していくのです。

 また、あまり自分のことを考えないようにしています、今生はどうとか、また、いつになったらどうとか、それらはただ長い生命の過程の中の微小な断片に過ぎません。この世に表れたそれらの断片の凝縮は正法時期において、宇宙での正邪の戦いが大法弟子の修煉状態に表れた反映です。

 少し前に、私の体に重い病業の関が表れ、高熱で咳が止まりませんでした。どうすれば乗り越えられるか悩んでいた時に、それは虚像で、邪悪の妨害なのですという師父の言葉が頭に反映されました。全身から力が抜けて動くことができず、どうすればよいのでしょうか。大法弟子の源、大法弟子の使命、大法弟子の行うべきことは真相を伝えることだと師父は教えられました。力の及ぶ限りに、「これは虚像だ、これは虚像だ」と自分に言い聞かせながら真相を伝えました。徐々に、学法、煉功、正念を発することを行う回数が増えていくにつれ(当時は本当にもう限界を感じました)熱が下がり、外出もできるようになりましたが、依然辛くて耐えがたかったのでした。

 ある日、ベッドに横たわっていたら、寝てしまい夢を見ました、夢の中で私はとても広い部屋の中にいて外へ出たいのですが、すべてのドアに鍵が掛っていて、外にも守衛さんが各ドアのそばでガードしていました。目が覚めて、師父に「師父、私はわかりました」と言いました。あれから、どんなに体が辛くても、私は毎日出かけて、徐々に体が回復しました。

 師父からの教示ははっきり感じ取れる時もありますが、長い間、自分が望んでいるような師父の教示が得られない時もあります。解決法が見つからず、逆境の中で途方にくれます。しかし、師があり、法があり、難しいことですが、うまくいかなくても、一生懸命に修めていきたいです。時には寂しさと孤独感に襲われますが、しかしこれは修煉において、自分が直面して克服すべきところなので、すぐ克服できて、すぐ改善できるようなことではないと思います。往々にして、無力で望みも見えない極限の状態まで至り、やっと自分に変化が起きていることに気づくのです。(その間、三つのことをしっかり行うことです)

 自分の顕示心や、嫉妬心、名利に執着する心が最も察知しやすく、表れやすい時はほとんどこのような状態にいるときです。たとえば、意気消沈している時に、自分の意に適う明慧の交流文や、見解(自分の認識が検証されたかのようです)を目にすると、目の前がパッと明るくなり、元気が出てきます、自分の意に適わない文章を読むと、しおしおと元気がなくなり、頭の中で同修の文章に反発してしまいます。このような状態は以前から気付いていましたが、意識的に抑えて、コントロールできるようになったのは最近のことでした。

 自分の願いは永遠に「修は己にありて、功は師父にあり」の教えの通りです。法を多く学び、三つのことをしっかり行い、常人社会の「心地の悪さ、辛さ」が心と頭の内側からわき出した時も、自分はなぜ心が動揺したのか、なぜ苦しく感じたかの原因を見つける良い機会と捉えたいものです。難しいことですが、1回でだめなら2回、2回でもだめなら3回と、少しずつ、コツコツと何回も堅持して行うことが修煉ではないでしょうか。

 私は18カ月も続けて39度の熱を出したことがありました。最後の3カ月は病院側がどんなに手を尽くしても、わたしの熱は下がりませんでした。しかし、先に他界してしまう同修や、途中で修煉をやめる同修、落後してもまた追いついてくる同修、完全に落ちてしまう同修もいます、同修によって修煉状態はさまざまなのです。私たちはこの世に降りるときにきっと知っていたのです、しかし、師父についてここに来ました、なぜならば、その時、私たちはただ師父を助けて法を正し、衆生を救い済度する一念以外に、何の心配も懸念することもなく、振り向くこともせずに来ました。なぜ、今、真に位に帰る時になり、私たちは躊躇して、ためらうのでしょうか、自分が人間の観念と理に深く埋もれてしまったのではないでしょうか。私たちの修煉には条件がつくものでしょうか、修煉したのは身内が常人社会で見守られる保証があるからでしょうか、誰それが大法から何かを得たのを目にしたからでしょうか。

 私の修煉はあまりよく出来ていません。けれども、法を得てから、私は法がなければ生きていけないことを確信しました。たとえ何も見えず、感じることができず、円満成就に達しなくても、大法を知り、このような生き方もあることを知ったので、私はこの生き方を選びます。この十数年の苦難や困難も、自分がうまく修めることができないことにしても、これらのすべては私を十分に満足させてくれるのです。

 実は法の中には何でもあります、自分が身を入れているかどうかが肝心なのです。旧勢力の存在に構わず、時々刻々に常に師父の法はどう説かれていたかを考えればよいのです。師父は旧勢力のすべてを認めておられませんので、大法弟子も師父に従います。師父は大法弟子の行ったことを認めてくださいます。初めて内に向けて探したのは、新しく購入したプリンターが故障した時でした。新品のものが故障することはあり得ないとわかっていましたので、プリンターを見つめて椅子に座り、内に向けて探さなければならないと思いました。その一念で、詰まっていた紙が平らになって出てきて、故障が消えました。次回も同じ故障が出てきた時に、私も前回と同じ方法で悟りましたが、効きませんでした。私への法の要求が高くなったのです。ただ内に向けて探すだけでは足りません。その執着を見つけなければなりません。師父の法は一歩ずつ、そこからどう行えばよいのかを教えてくださるのです。

 恐れる心、安全、理知など、すべてのことに対し私はまず行うべきかどうかを考えます。熟慮の上でやるべきだという結論を下したら、すべての手を尽くして行い、実践します。私の恐怖心やいろんな心はとても重いのですが、「これを行わなければならない」という一念が勝ります。びくびくしながらでも、冷や汗をかいてでも、悪夢にうなされても、決めたことならやり遂げます。何も分からず、何も知らずに行ったことは、意外にすんなり成し遂げることが出来ます。ここまで歩んできて、振り返れば、自分は何もできませんでした。すべては師父がやってくださったのです。しかし、実践する過程で、恐れる心と執着がもたらした複雑な気持ちは本当に耐えがたいものでした。それらの執着心が自分に優柔不断をもたらしたのでした。今でもよたよたしながら修煉の道で前へ進んでいます。

 私の家には真相資料を作成する道具が、何でも揃っています。不当に拘禁され、家に戻った後でも修煉を辞めないことは地元と勤め先、近所の派出所が知っていました。家の電話は盗聴されていますが、毎朝、私はスピカーで煉功音楽を流し、学法するとき思うままに声を出して読みます。自分の恐れる心は重いのですが、正々堂々の大法弟子になることがずっと私の宿願です、実践しながら少しずつ実行しなければと思います。もちろん強引に行うのではありません、師父が法の中で私たちに教えられたことに沿って行わなければなりません。私たちの修煉に漏れがあれば、旧勢力が迫害する隙を与えます。私たちが修煉に励めば、旧勢力が悪人に悪事を働かせることを指図する隙を与えないことになります。この迫害は人から人への迫害ではなく、正と邪の他空間での戦いの反映です。明慧ネットに、同修が書いたこのような事例の交流文がたくさんあります。執着心はこの過程の中で徐々に取り除かれていくのだと思います、真に修めて実践しなければ、執着が暴露され取り除く機会もなくなります。いくら考えて分析しても、常人の思惟様式で大法弟子の行うべきことを判断していることに等しいので結果は出ません。修煉は実践することであって、空想、空論ではありません。

 常人からどう思われているかをあまり気にせずに、修煉者は過ちを犯しても、修煉してでき上がった一面は隔離されて誰も見ることができないと、師父は私たちに教えてくださいました。正法を修煉する者は、誰もが敬いますが、それは常人社会で煽られることとは違います、なぜなら、私たちはまだ修煉して、突破しなければならない関と、他人の指摘を受け付けない強い執着が残っています。常人は私たちに修煉する環境を提供してくれると同時に、私たちに救われることを待っています。ならば、誰かに意地悪をされたり、誰かに悪口を言われたりすることは、皆良いことなのです、皆私たちの執着を暴露し、取り除くために提供してくれた機会なのです。師父の法の基準に基づけば、誰もが私たちのことを正視します。常人は他の次元の生命と繋がり、それらにも皆わかっている一面と先天的な一面があるからです。

 同修の皆さん、自分自身に対して、あまり劣等感を抱かないでください。それも人心、名利心の表れです。ただ、こつこつと学法すれば師父が私たちを未来へ導いてくださるのです! 必ず師を信じ、法を信じて、師父と一緒に家に帰りましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/30/263358.html)
 
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