文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年1月24日】私が今朝、静功の時、座禅を組んだ途端、脳裏にある問題が浮かんできました。「私は本当に修煉しているのか? 毎日の座禅や学法を一つの仕事としてこなしているだけなのか? そうであれば、私は専業の和尚とどこが違うのか?」こう思って、私は驚いてしまいました。
私は修煉する前から、何事もルールを固く守り、融通のきかない性格でした。また以前から、毎回座禅の時、私は音楽が終わるのを待ち続け、足が痛くなればなるほど、ただひたすら終わる時間を待ち望みました。時には歯を食いしばって我慢し、痛みに耐えきれない時は、経文を暗唱する方法で終わるまでの時間を耐えてきました。音楽が一節終わると、「あ、あと10分だ。もう少しの辛抱」と思い、もう一節が終わると、「あと5分だけ。もう直ぐ終わるから」と思いました。こうして、毎回の座禅の後、足が痺れ、痛くて歩けませんでした。しかし今日、私は突然思いつきました。「煉功の時、このように考えれば、法を正す時期の終わりをずっと待ち望んでいるのと、どこが違うのか? 本当は、この過程で心を静め、着実に修めなければならないのに、私はいつも歯を食いしばり、我慢しながら終わりを待つばかりでは、師父と大法を信じていないのではないか!」
このことが分かってから、私は心を静め、師父の要求通りに何も考えず、ただただ師父がおっしゃったように修煉しようと思い、煉功の時間などを気にしないことにしました。こう考えた途端、足が全然痛くなくなり、心が静まり、時間もあっという間に過ぎてしまいました。煉功後も、以前のようにびっこをひかなくなりました。
師父に助けられ、長い間気付かなかった執着を取り除くことができて、私は心の中で何度も師父に感謝し、こう申し上げました。「師父、私は分かりました。今後、私は法を正す修煉の時間の終わりの問題などに執着せず、いくら長くなろうとも、どのような形で終わりが来ても、二度と執着せず、心を静め、師父に按排されたことを着実に実行していくことにだけ、専念したいと思います」