カンボジア共産党元高官が法廷で謝罪 中共の罪悪が明るみになる
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文/一清

 【明慧日本2013年6月8日】カンボジア共産党の元高官・ヌオン・チア被告とキュー・サムファン被告は2013年5月30日、カンボジアの法廷で初めて当時の暴政による被害者に謝罪し、責任を認めた。

 国連の働きかけで2009年2月、旧ポル・ポト政権による大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷が正式に設立し、戦争、人道に反する、拷問、謀殺などの罪名でカンボジア共産党の元高官5人に対して審理を始めた。

 元刑務所長・カン・ケク・イウ被告は審問にあたって、以下の事実を認めた。1975~79年にわたって、S21監獄の看守所長として、1万5千人に拷問を与え、死に至らしめた。この罪でカン・ケク・イウ被告は2010年に35年の禁固刑を言い渡された。被告は「命令に従っただけだった」と不服を申し立て上訴したが、法廷に却下された。

 1975年から1978年まで、中共が樹立し、支持したポル・ポト率いる共産主義政党のクメール・ルージュ政権は、人口800万人口足らずの小国カンボジアで、200万人を殺害し、20万人の華僑もその中に含まれている。

 『共産党についての九つの論評』によると、「ポル・ポトが最も崇拝するのは毛沢東である。1965年より彼は四度も中国を訪ね、毛沢東に教えを受けた。1965年11月、ポル・ポト氏は中国を訪問し三カ月間滞在した際、既に陳伯達と張春橋などから「武力で政権を打ち立てる」「階級闘争」「プロレタリア階級独裁」などの理論と実践を学んだ。これらの理論と実践は、彼がその後カンボジアで政権を奪取、建国、国を治める依拠となった。帰国後、彼は党の名称をカンボジア共産党と改名し、中国共産党を真似、農村か ら都市を包囲する攻め方で、自らの革命拠点を造った。」

 1968年、カンボジア共産党は正式に軍隊を作った。1969年末、軍隊の人数は、多くみても3,000人程度であったが、1975年、彼がプノンペ ンを占領する前には、なんと「完全装備で、勇敢に戦う」8万人の武装軍隊にまで発展した。これは完全に中国共産党の後援でできたものだ。王賢根氏の著作『ベトナムを援助、米国に抵抗の実録』によると、1970年だけで、中国はポル・ポトに対して三万人の武器装備を援助した。1975年4月、ポル・ポトはカンボジアの首都を攻め落とし、二カ月後に中国共産党の指示を得るために、北京を訪ねた。赤いカンボジアでの殺人は、中国共産党の理論と物資の支援がなければ、単独で実行することはできなかったのである。

 中国国内のニュースでは、カンボジア共産党、そして中国共産党との関係について全く言及していない。目的は共産党がおびただしい数の人を殺した歴史を隠すためだ。数十年にわたる中共政権は、暴力や殺人手段を輸出しただけではなく、中国国内でも8000万人の非正常な死亡をもたらし、1億以上の家庭を壊した。1989年、天安門広場で数千人の学生を銃殺した。さらに、1999年から現在に至るまで、法輪功への迫害は14年にも渡り続いている。概算統計によると、身元や名前を確認できただけでも、既に3000人以上の法輪功修煉者が拷問されて死亡した。十数万人の法輪功修煉者が不当な労働教養を強いられ、禁錮されている。数千人が精神病院で拘禁、注射の迫害を受けている。ひいては、多くの人は生体臓器狩りの対象とされた。これらのすべては血の跡が点々と付き、文字では伝えることができないほどだ。

収容所内でユダヤ人に対して虐殺を行ったため、死刑を執行されたナチス・ドイツの看護師ら(1946年)

 善悪には報いがある。公理、公平は何度も世人に現れ、殺人犯は最終的に人間の法廷、道義の法廷で審判され、法律の公正な裁判や神様からの懲罰を受けるはずだ。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/3/274836.html)
 
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