明慧法会|日々の暮らしの中で師父とともにいる(二)
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2013年7月15日】

 利益に対する執着心を取り除く

 幼い頃から我が家の経済条件は同年代の人に比べて良いほうでしたが、迫害が始まってから、夫は私が大法のことにお金を使うことを防ぐため、毎月私に少しの生活費しか渡してくれず、しかもよくお金の使い道をチェックしました。私はノートを買ってきて記帳し始めました。最初の2回、帳簿を見ながら夫に報告する時、2回とも私は悔し涙を我慢できませんでした。3回目、「あなた、今日私は泣いていないでしょう」と自慢げに夫に言いました。

 夫は2人の合弁相手と遠い農村に工場を借りました。2人の合弁相手と家族も昼に私が作った食事を食べます。朝晩は私が工場にいないため、彼らは自炊しますが、しかし使う調味料は全部私が買ってきたもので、使用した食器も洗いません。長くなると、私は多少機嫌が悪くなりました。その時、一つの鍋を共用してご飯を食べられるのは、我々の間にきっと大きな縁があって、前世、彼らは私の身内だったかれしれないと思えば、不平不満の気持ちが収まりますが、心が動じる時もあります。ある日、ゴマ油がどれほど減ったかをチェックしようとした途端、お碗の中に入れた卵の液が突然こぼれました。私はすぐに自分が間違っていると分かりました。

 夫の姉は息子とけんかして、姑は姉を夫の工場にしばらく泊まらせ、さらに数日後、姑は84歳の高齢の親戚を工場に迎え入れ、接待して泊まらせました。私は毎日昼食の支度をして、正午12時の発正念をしてから皆に遅れて昼食をとります。時にはご飯が足りないと私の分がなくなっているので、皆に新しいご飯とおかずを食べさせて、私は残り物を食べます。他の人が休む時、私は掃除などをします。こうして私は限界まで来ました。ある日の夕方、同修の車に乗って外出した時、同修が車に載せていたDVDを再生しましたが、ちょうど師父の説法の「大根器の人」の一節でした。これは師父からの励ましだと思って、心身ともに疲れきっていた私は涙がぽろぽろ落ちました。私の家庭状況を聞いた同修は「これは妨害ではないか」と私に注意してくれましたが、旧勢力の妨害であれ、師父が按排してくださった魔難であれ、乗り越えたいのなら、大法に同化するしかないと私は考えました。

 たまに夫の工場に数日行っていない間、そこでアルバイトをしている夫の兄嫁は、数日野菜や主食を買ったからと、使ったお金を請求してきます。私はすぐに数十元(約1000円)を彼女に渡しますが、同時にもし、このことを夫に報告するなら、私はきっと「貴方の兄嫁は毎日ここで食事をしているのに、自分がちょっと買い物をすれば、私にお金を払ってもらうなんて」と不平を言い、自分の寛容とお金を惜しまない姿勢を夫に見せたいと考えました。しかし、すぐ「当然私は兄嫁にお金を返すべきで、どうして不満を持って、夫に顕示したいのか」と反省しました。夫に見せて顕示したい自分は、まるで常人の次元よりも低いと痛感しました。自分の言動は大法の法理に適ってさえいれば良いのに、どうして人に顕示したいのでしょう。その人心は取り除かなければなりません。私はだんだんと一つ一つ小さい考えの中から、大法にそぐわないものを識別して掴むことができるようになったことを嬉しく思い、「無為」の法理をいっそう深く理解できました。

 今年の夏、夫の友人一家と我が家の家族は一緒に草原に旅行に行きました。途中、ほとんどの支払いは夫がお金を出したのですが、私はすでに入場券や食事のお金を誰が払ったかについて、関心を持たなくなりました。意図的に金に対する執着を放下したのでなく、全然知りたくありませんでした。景色に対しても興味を持たず、ずっと真相を聞いてくれそうな相手を探しました。北京を通った時、みんな北京の名所を観光しようと言いましたが、私はただ静かに発正念をしたかったのです。ここは首都で迫害の巣窟だからです。車が山道をくるくる走る時、高くそびえる山の奥にきっと仙人が住んでいるに違いない、彼らはきっと私が手に取った『轉法輪』を慕うだろうと思いました。夕方、家に着く直前に、リュックに入れた携帯電話(自動的に真相メッセージを送るように設定した)を急に思い出しました。普通、バッテリーは2時間しか持たないのですが、リュックから出して確認したら、午前に出発する際に作動させてから交換していないのに、携帯はまだ正常にメッセージを送っていました。「不思議だ。バッテリーはまだ切れていないのか」と常人の観念で考えた途端に、携帯電話のスクリーンにすぐ「バッテリー低下」のマークが現れました。

 名に対する執着を取り除く

 1999年7.20以来、多くの同修は安全のために行動を控えめにしたので、我が家は同修たちが顔を合わせて、真相資料を分配する場所となり、だんだんと私は現地の協調人になりました。平凡で野心のない主婦の自分には、名を求める執着心がないと私はずっと思っていました。

 同修のAさんは全体に対する責任感が強い人です。彼女の最大の長所は苦に耐える根性があり、とても根気良く同修を助けるところです。春夏秋冬、厳寒と酷暑にかかわらず、彼女は苦労を惜しまずに、私からするとそれほど重要でない情報も、順次に同修に伝えて、同修の中の「名人」になりました。それは私の「名」に対する執着心を刺激しました。1回目の爆発は2010年、彼女と他の同修が段取りした交流会の時で、偶然に交流会に出席した私は心の中でぷんぷんして、同修たちに重い抑圧感を与え、交流会全体に悪影響を及ぼしました。自分の身に付いているこのような悪い物質を発見して、私はとても悩みました。こういうものを取り除かないと私は「善」をやり遂げられません。師父の『オーストラリア学習者に対する説法』のビデオを見て、私が交流会を段取りする役に選ばれなかったことは、人間が決めることではなく、神様が決めたのだと悟りました。それなら、自分をよく修め、できることがあれば、それをやりましょう。

 もう一度、Aさんが段取りした交流会に参加しないかと他の同修に誘われて、私は思わず「行かない、行かない」と答えました。電話を切ってから、どうして行かないのかと私は自分に聞きました。それは嫉妬心で、名に対する執着で、自我を重視する心です。私は行かなければならないし、自分の執着と戦わないといけません。Aさんの発表を聞いて、内心はまた良い気分になれませんでしたが、頑張って人心に動かされずに表面上では落ち着いた態度を保ちました。当時の私は、そこまでしかできませんでした。後日、同じ場面に遭遇した時、私は表面の穏やかさでなく、本当に内心から和やかな心境になって、Aさんの精進と、Aさんがこれほど多くの仕事を分担してくれたことを心から感謝しました。

 名に対する執着の源は「自我」であり、それはすべての人心の源でもあります。大法弟子は数十年の修煉の経歴がどんなに輝かしくても、「自我」を放棄できなかったら、恐らくそれまでの苦労は全部水の泡になると思います。なぜなら、それは天の功労を横取りすることになるからで、私達のすべては師父と大法がくださったものだからです。

 結び

 人間の体、一見して普通の体に、どれだけ目に見えない無形の生命が付いているでしょう。それらの生命は人間をコントロールして操っています。人間は名利や情が自分の命そのものであると思って、そのために死ぬことも惜しみません。修煉者が名利や情を取り除く過程で苦痛を感じるのは、取り除かれる結末から逃れるために身に取りついたものが人間に苦しみを感じさせるからです。修煉者がただ法理に従ってこそ、師父は取りついたものを剥離して、修煉の機制を植え付けることがはじめてできるのです。それから、その体は貴重な修煉の機械になって、修煉者の向上につれて、多くの高次元の生命体を生み出すこともできます。これが人体がなぜ貴重であるかの理由です。

 私が円満成就できるのなら、みんな誰でも円満成就できます、なぜなら、誰もが私より人心が少ないからだと、私はよく同修達に言っています。自分を列車にたとえると、かつて一つ一つの車両にごみを詰めましたが、師父はごみを捨てて車両を空けて、真珠や宝石をいっぱい入れてくださいました。

 名利情から超脱してから、それらのものは私に関を設けることができなくなっています。私は本当に「どうでもよい」という次元に達してから、大法の要求は更に高くなりました。強烈な名、利、情の邪魔がなくなってから、もう一つ更にミクロ的な「偽の我」の存在に気付きました。本来、「偽の我」と本当の自分は一体になっていますが、修煉者は徐々に「偽の我」を剥離できます。本当の我は調和の取れた状態にあって、しかも常に動じないものです。どのように「偽の我」を放下できるでしょうか、常に大法に符合すれば、「本当の我」が体の心身両面を支配することになります。

 最も苦難に満ちた時期は乗り越えましたが、気を緩めずにしっかり最後の道を歩んでいこうと思います。

 (完)

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/10/264109.html)
 
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