誰を拝むのですか
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文/大慶の大法弟子

 【明慧日本2013年8月24日】ある人が次のような笑い話をしました。一階にあるコンビニに煙草を買いに行きました。店に入ると、そこの店長が息子を殴っているのを見ました。「なぜ子供に手を出すのか? 子供に話をするべきだ」と止めようとしました。店長は「この畜生めを殴るのだ。こいつはなんと俺の福の神をウルトラマンとすり替えて、俺は何日間もそれを拝んでいたんだぞ」と怒って言ったそうです。

 この笑い話は滑稽のようですが、しかしその意味は深く、とても参考になり、考えさせられることも多くあると思いました。

 常人はお金を求めます。お金を求めるならば福の神に正しく礼拝しなければならないと思っています。笑い話の中の店長は、形式だけを行い、毎日神棚の前に来て拝んで、その儀式を済ませばすぐその場を離れて行きます。その結果、福の神を息子さんに替えられ、何日か過ぎても、彼は少しも気づかず、相変わらず拝んでいました。息子さんは確かに中身をすり替えました。しかし、子供は幼く、物事をわきまえていないから仕方がないのです。本当に間違ったのは店長のほうだと思います。彼は神を拝んでいますが、彼は神棚の様子をよく見て、それを見定めてから拝むべきではないでしょうか。

 ここから、私達も修行する人が仏像を拝むことに思い至ります。修行する人が仏像を拝む時、その像を拝むのでしょうか? もちろんそうではありません。その像を生きた仏と同様に敬い、礼拝し、神様がそこにいらっしゃるように敬意を払うのです。仏像を礼拝する時、心を清め、衣服を正し、挙措を厳粛にしなければならないのです。内から外まで、奥から表へと尊敬の意を表さなければなりません。謙虚で礼儀正しくしてから、教えをいただき、誠心誠意をこめて懺悔し、誠心誠意に憧れます。人間は心の奥底から仏を信じ、仏に学びます。そうすれば、仏は始めて人間を加護し、人間を済度します。

 今、一部の同修の間では、お互いに崇拝する傾向があることに私たちは気づいています。一部の同修は講演の上手な人、刑務所から出て来た人、仕事を多くする人を崇拝しています。そのような同修を追いかけて、師父と法を脇に置く人さえもいます。このような同修は、笑い話の中の店長と多少似ているのではありませんか? あなたは誰を拝んでいるのでしょうか? 見定めてから拝むべきではないでしょうか。人に学んで法を学ばないというのは、人を拝んで師を拝まないのではありませんか? もし拝んだのが魔だったら、それは敵を味方と取り違えて、自ら災いを招く恐れがあります。私達は物事をなす時に、必ずよく考えてからしなければならず、流行を追って駆け回ることをしてはいけません。誰に付いて、どこへ行くかということは、追いかけて走る速度よりもっと重要なことです。

 私達は必ず注意しなければならず、何事も本質的なことを押さえていれば、遠回りをせず、無駄な努力をせず、最も速く最も近道で進むことができます。矢を射る時も同じです。的を狙うことは弓を引く力よりさらに重要です。的がずれていれば、力を入れれば入れるほど目標から外れます。運転する時もそうです。方向は速度よりもっと重要です。方向が間違っていれば、速ければ速いほど回り道をします。仏像を拝む時も同様です。見定めることは頭を地につけて拝むことよりもっと重要です。相手が間違っていれば、誤って邪道に陥ってしまい、最後までとことん壊れてしまいます。自分の前で大言壮語をする人は師と仰ぐことはできません、その大半は魔か人のどっちかです。それが分からなければなりません。

 師父はおっしゃいました。「あなたが勝手にその人を師と仰ぎ、彼についていって、どこへ連れていかれるのか分かりますか? 彼でさえ正果を得ていないので、あなたの修煉は無駄になるのではありませんか? しまいにはあなたは功を乱されてしまいます。人間にとって心が動じないことは至難です。皆さんにはっきり言っておきますが、これはきわめて厳粛な問題で、将来、多くの人にこの問題が起きると思います。法はわたしが説いてお聞かせしましたが、自分を制御できるかどうかは、すべてあなた次第です。今お話ししたのは一つの状況です。他の門派の覚者に会っても、心が動ずることなく、ひたすらこの一門で修煉するのです。いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔に対しても、心が動じることがなければ、必ず成功するに違いありません。」(『転法輪』) 法理を用いて現状を分析すれば、慧眼で真相を知ることができ、正念を持って正しく行うことができます。後退することも道を迷うこともありません。

 修煉することは叩頭をし、線香を立てるのではなく、人の真似をしたり、機械的で形式的なものではありません。それは心をもって法を学び、命をもって法に同化することです。私達が仏を拝む時、必ず見定めてから礼拝します。事をおこす時、必ず大法の修煉者に対する基準に基づいて行動を行わなければならないのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/13/278015.html)
 
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