師と法を尊敬しない言動に注意しましょう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年6月13日】今日、学法の途中に姪のある面白い出来事を思い出して、これをぜひ、彼女の母親に伝えようと思い、一方で、これを伝えて何になるのかとも思い、思想の葛藤の中で学法に集中できなくなりました。結局、彼女の横に行って事情を伝えました。しかし、その母親は面白がる様子を見せず、私にもあまり見向きをしてくれませんでした。私はガックリし、何故なのと思わず思いました。何故それを言わなければならなかったでしょうか? 目的は何でしょうか? 原因はどこにあるのでしょうか? 何に駆られたのでしょうか?

 学法に影響を与えてしまうことを知りつつ、それを言うべきではないことも知りつつ、私は結局言いに行きました。内に向けて探し、私は以下の問題を発見しました。

 一、私には情があるために、よく姪の可愛くて面白い話を他人に言い、子供の可愛さや美点などを顕示しようとしました。人間はよく情や顕示心に駆られ、自分の子供の良さを人に見せびらかしたがります。

 二、姪の母親に言いたがる私は、その母親に言えば、母親もきっと面白く感じてくれると思い、その人と感情を分かち合えたかったからです。これは他人の賛同を得ようとする心です。

 三、人が重んじる、または気にしている人やものを褒めれば、その人を喜ばせ、気に入ってもらえるという心です。人間の観念では、あなたは彼女を褒めれば、彼女はあなたが好きになり、これは「名」を求める心です。

 四、私は自分より強い人、その気勢に抑えられる人、または自分を傷つけた人を恐れ、潜在意識の中でこの種の人から遠ざかろうと、自分を保護しようとする心があります。この保護の手段は、相手を喜ばせ、よく思ってくれるような言動を取り、そうすれば相手は自分を傷つけません。この自己保護の心は、恐れる心でもあります。

 五、自分の主意識が弱く、思想の中にある良くないことなどを自分の主意識でコントロールできていません。それらを警戒せず、修煉の意志が強くありません。これは一つの非常に厳重な問題の表れでもあります。それは師と法を敬わないことです。

 学法の時、本を置いて雑談を始め、この執着心は学法を超えていました。明らかに、自分の内心の深いところでは、法をそんなに重要だと思っていません。

 今日も思っていたのですが、大法を保護する為に自分は命を差し出しても構いません。しかし現実では、実践や行動の中で、私は大法を最後の最後に置きました。学法の時、私は何かがあればすぐ本を置きます。お腹がすいたら本を置き、のどが渇いたら本を置き、何かを思い出したら本を置くようにしていました。口ではいくら良い言葉を並べても、実際の行動こそがその人の真の心の現われです。つまり、私は法を最も軽く思っていました。もし本当に自分が思うように法のために命を差し出せるなら、法は心の中でどれだけ神聖かつ純潔で、どれだけ重要でしょう。しかし実際は?

 古代の人々は経文を読んだり、仏を拝む前、入浴して着替え、斎戒し、線香を差し上げるようにしていました。私は大法の本を読むとき、「これが万古に探せない大法、万古に遭遇できない機縁だ」という大切に思う心がなく、いつも本はそばにあるので、読みたい時に手に取るような容易い事だと思っていました。これは正に師と法を尊敬していないことです。

 師父は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「煉功者に敬う心があれば、修煉する時、佛像上の法身が彼を見守ったり、身の安全を守ったりして、彼のために法を護持してくれます。これが開眼の本当の目的です。」

 「敬う心」、師父は既に私たちに教えられました。ですので、私たちは毎回大法の本を手に取るとき、または師父に言及したとき、心に敬慕の念を抱くべきです。

 師父は『法輪功』の中でおっしゃいました。「その心を正そうとするには、まずその意を誠にすることを、修煉者は覚悟しなければなりません。」 古代、弟子が法を求めるのに、多くの試練を経験しなければなりませんでした。その誠意が試され、どれだけの苦痛に耐え、修煉のためにどれだけの犠牲を払うかが見られます。とても苛酷な試練を乗り越えて初めて弟子として受け入れられます。しかし私たちの師父は最も貴重な大法を私たちに伝えましたが、私はそれを大事にしようとは思っていませんでした。ですから今後私は、毎回本を手に取る前に、よくよく法の貴重さ、法の偉大さを考え、最も謙遜で、最も敬慕な心を持って本を読むようにしたいと思います。

 不足する部分があれば、同修のご指摘を宜しくお願い致します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/8/275007.html)
 
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