【明慧日本2013年5月29日】「何が神韻を可能にしたのか?」このタイトルは神韻のウェブサイト上で、ある神韻芸術団のメンバーが書いた日記のタイトルです。中にこんな記述がありました。「私たちは緊密な集団であるため、一人ひとりが全体の一部分であり、それぞれの役割があり、働きがあり、機能します。このことが私たちの公演の成功の秘訣です。私たちは強く握られた握りこぶしのようであり、そのために公演は震撼力にあふれています」
私はある観客が話した感想を覚えています。彼女は神韻を鑑賞中、公演現場で一人一人の演技者たちの能力、あるいは劇団の全体の能力を超える不思議なエネルギーを感じたそうです。この話を聞いた時、私は彼女が何故このように感じ取ったのか、それは一切を超える偉大な師父の法の慈悲なる善のエネルギーだと感じました。一人ひとりが自分のやるべきことを良くやり遂げた結果として、想像を超える威力が生じ、法の力が現れるということです。これは誰一人、あるいは他の集団の力では及ぶことのできない不思議な力であるに違いありません。
神韻を鑑賞した同修にインタービューをした時、その同修は、体力上の困難は最大の問題ではなく、劇場ごとに異なる舞台で、ミスをすることなく自分の役割を果たすことは非常に難しいと言いました。
その時、私が思ったのは、神韻の同修たちが一人ひとり自分のためではなく、相手の動き、演技のために考えて全体の成功のために、どのように自分が最も良く役割を果たせるかと考えたなら、必ず成功を収めることが可能です。誰か一人でもあまり良く働かなかったら、もしかしたら「碗の踊り」の時に碗を良く設置しなかったら碗が落ちて来るかも知れません。あるいは飛び降りる舞踊の演技でお互いにぶつかってしまいます。皆がまず自分のするべきことに集中し、役割を100パーセント果たし、相手のことを考えるなら、全体で師父の法の威力を感じ取り、師父の法の協調が上手く働くのです。これこそすべてを越える法の威力です。
極端に走ることなく、自分がしっかりとして内に向けて見れば、自然に他人はああだこうだと考えなくなり、法に溶け込んだ生命は、必ず法の様々な次元における基準に符合し、人心で極端な判断をすることはありません。修煉は人心を取り除くことであり、人心を取り除いた部分は法に同化されますが、決して空白になるのではなく、法に符合した表現になるのです。
皆が、どのように全体がしっかりと行うかについて考えていると話していますが、実は師父はすでに、神韻を導いて私たちに手本を見せているのです。観客はよく、神韻のメンバーなら誰もが他の団体へ行ったら主役になれると言っています。彼らはそのように素晴らしいからです。
私は、親戚が修煉の過程で難関を越えている様子を見る時、心が痛くなります。しかし、その時自分が思うのは、彼らはかつて師父の親戚でもあります。私は最大の能力を発揮しても師父の安排には絶対及びません。そうであれば、なぜわれわれは互いに学法を励ましあわないですか? 大法の本の後ろにはすべての宇宙があり、一層一層の数えきれない宇宙や、佛・道・神がいて、その最高の所に師父がいらっしゃいます。なぜ我々はどんなことに遭っても法の中から答えを探すのではなく、互いに論争し続けているのでしょうか?
法を学ぶ過程は法に同化される過程でもあります。ある同修は文章の中でこう書きました。法を学習することは修煉の一部であることことがやっとわかりました。法を学習するということは法に指導してもらうということです。実際に何があっても、何に遭っても法にどのように書かれているか、法はどのように見ているかを見れば分かります。今日まで辿り着いて、我々の法に対する認識はまだ法を常人の理論・知識にように思っているのでしょうか? 宇宙を創った法は我々の思想や行動を指導するだけに留まりません。なぜ、習慣的に常人の認識に停まってしまうのでしょうか? 法を本気で学ばないと何も得られないし、心の中から尊敬して読まない限り、何も得られないでしょう。先に悟り、先に信じないと絶対に何も得られません。
我々は大切な機縁を大事にして、遺憾を残さないように頑張りましょう。