同修の情を放下する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年4月21日】この半年間、同修の間で摩擦が絶えず、内に向かって自分の問題を探しましたが、問題は重なっていき、ついに、私と同修は我慢できずに激しく口論しました。その後、私の心は苦しみましたが、同修も同じ気持ちで、2人とも泣きました。同修は私に優しくしていると訴えていますが、私も同修のために、無私で一所懸命やったと思っています。悔しい思いが2人の心にいっぱいありました。その間、発正念煉功学法のときでも、同修のことばかり考えていました。時には自分を責めたり、時には、同修を恨んだりして、何をやっても心を静めることが出来ませんでした。

 私と同修は2年近く一緒に真相を伝えてきました。何があっても、お互いに協力できました。当時、法輪功に対する誹謗中傷の看板が出たとき、みんなは看板を壊すのは危険だと思っていました。しかし、私達はこんな邪悪な看板は壊さないといけないと心が通じました。私達はさまざまな困難を切り抜けて、きっと善い縁で、一緒に大法を実証することが出来たと思います。

 私は独修状態で、この同修だけと交流しています。彼女は多くの同修と接する中で、毎日私に電話をかけて何でも私と相談します。時間が経つにつれて、私達は何かあったときに、物事を考える基準が大法の角度からではなく、知らないうちに常人の立場になり、感情的に自分の不満を口にするようになりました。だんだん口を修めなくなり、修煉者が言うべきかどうかも考えずに、ついつい喋ってしまいました。最初はお互いに我慢できる程度でしたが、最後に爆発するようになりました。彼女は「あなたは人に言われたくないでしょう」と言い、私も「あなたも同じでしょう、あなたのことを口に出したら、聞く耳を持たず、すぐ爆発してしまいます」と言い返しました。結局、2人は悲しくて泣き出してしまいました。私達はお互いに「初めて会った時はいい人だと思っていたのに、今思うとイメージどおりの人ではなかった」と思いました。

 「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです」[1]。ここが私達の問題です。大法弟子が法を実証することは、偉大なる神聖な事ですが、私達はすべて人心で物事を行っています。常人ですら、生活の中にある些細なことでも、相手を気配っています。そして、気づかないうちに、「情」というものが大きく育っていました。

 情に執着する心を捨てる過程は非常に苦しく、良くない考えが続々と現れ、きりがないくらいでした。しかし、私の理性的な一面はよく分かりますが、旧勢力は私と同修の漏れを利用し、間隔を作っています。すると、私達は法を実証することが台無しになります。私は必ず「情」を排除しなければなりません。大法弟子になりたいならば正念を持って物事を扱うべきです。それから、私はもう同修の事を思い出さないようにして、同修の話をあまり気にしないことにしました。同修に対して、何か悪い念が生じたとき、私はすぐ「悪い念」に対して話しかけます。「あれは私の同修ではありません。私の同修は法理がはっきりしている大法弟子なので、私に干渉しないでください。さもなければ、私は発正念をして『滅』と念じますよ」

 今回、私は「同修の情」の問題でつまずいてしまいました。私と同修は同じ時期に同じ法理を悟ることができ、私達が法を実証するために師父は知恵をくださいました。それは意気投合することだと思いました。私達は師父の開いてくださった道を裏切りました。

 法を正すことは、残りわずかな時間となりました。私達は人心を放下しなければなりません。脇道を歩まないように、勇猛邁進しましょう。師父は「理智をもって法を実証し、智慧をもって真相をはっきりと伝え、慈悲をもって法を広めて世人を救い済度する、これはすなわち、覚者の威徳を築きあげているのです」と説かれました[2]。

 修煉の次元が限られていますので、適当でないところがあれば、指摘ください。合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「理性」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/3/266138.html)
 
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