文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年5月16日】私がここで述べる「両面性」と常人のいう「両面性」とは違います。常人のいう「両面性」とは人前とそうでない時で言動が違うことを指しています。私達は神の道を歩んでいる大法弟子ですので、私が述べる「両面性」というのは、修煉が良く出来ていない人の一面と修煉して出来上がった神の一面のことであり一つの面に限りません。私達は法を正す時期の大法弟子として、師を手伝い法を正すために、一体どのくらい神の一面を使って、三つのことをやっているでしょうか?
最近、『精進要旨』「道法」を読んだときに、衝撃を受けたような感じがしました。数年間、師を手伝い法を正す中で、自分は神の一面で法を正しているのか、自分でも分かりませんでした。時には、自分は人間の一面で三つのことをやったり、時には、神の一面で三つのことをやりました。効果は想像できます。法を正す時期に、自分は結局神の一面で法を正しているのか、それとも、人間の一面で物事をやっているのでしょうか? これは法を正す時期の大法弟子が分かっていなければならないことで、しかも、非常に重要で肝心な問題です。しかし今、私はやっとこの法理が分かりました。本当に悟性が低いのです。
私達は人間の一面があるからこそ、この世の中で生きて行くことができますし、道理を悟ることができます。師父は「実は、大法は人間を済度するだけではなく、各界の衆生にも説かれ、目覚めて悟った本性は、自らいかに振舞うかを知っているはずです」[1]と説かれました。きちんと修煉が出来上がった一面は神の一面であり、法を正すことができます。「本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんを神の一面を抑制し、つまり皆さんが修めて出来上がったその部分を抑制し、法を正すのを阻んでいるのです。修めてまだ出来上がっていない一面が、どうして主思想を抑制し、すでに法を得た一面を抑制することができるものでしょうか? 人為的に魔を助長し、それが法の隙につけ入っているのです。弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えられます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」[1]と説かれました。この面から見ると、実は師父は1997年7月5日に、私達にどうすれば法を正すことが出来るかを教えてくださったのです。ただ私は法の勉強がそこまで達していなかったのでした。
神の道を歩んでいる法を正す時期の大法弟子として、私達には「両面性」があるので、この二つの関係を正しく理解することがさらに重要なことになります。きちんと修めていない人間の一面はいろいろな悪習に染まった常人社会に干渉されないように、さまざまな誘惑に抵抗しなければなりません。師を助けて法を正す時、私達一人ひとりは神の状態、神の正念、神の一面になり、しっかり三つのことをやり、しっかり、師を手伝い法を正すことをやり遂げて、先史の誓約を果たしましょう。適切でないところがあれば、慈悲に指摘ください。合掌。
注:
[1] 李洪志師父の経文: 『精進要旨』「道法」