神韻の営業をしても、三つのことをしっかりしなればならない
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2015年2月27日】毎年神韻公演が開催され、学習者たちは様々な方法でチケット販売を進めています。常人社会に暮らしている私達は、当然、最大限に常人社会の状態に適応し、物事を行わなければなりません。しかし、私達は往々にして、市場分析ばかりに着目し、もっとも重要な側面――修煉を見落としているのではないでしょうか。

 初めて神韻公演に携わった時、協調人は新しい学習者である私を連れて営業活動に励んでいました。当時、まだ主流社会をターゲットにして、広告で広く知らせる宣伝手法などを知らず、モールで販売促進をする以外、私達は各クリスマスイベント会場や教会などの所でチラシを配るしか知りませんでした。大きな建物を見ると、私達はすぐにそこに直行して、高級マンションの管理人達と交渉しました。こうしてショーの開催をして見ると、一応まあまあの成功を収めることが出来ました。当時の営業方法はとても専門的とは言えなかったのですが、しかし、私達には人を救いたい純正な心と怖いもの知らずで、勇敢に物事に当たるやる気がありました。このせいでしょうか。師父は私達を励ましてくださり、助けてくださいました。

 私達の修煉の次元は高まり、修煉の基準も高まりました。もし、これを試験に例えれば、テスト問題も毎年が変わって来るでしょう。昨年は大学入試のテスト問題でしたが、今年は修士課程の入試問題になり、来年はもしかしたら博士論文になるかもしれません。私達が行っているすべての事が、私達の修煉と関連しているのであれば、私達は修煉の側面から、自らと全体を見直して、何をすれば、神々が私たちを助けて下さるかを考えるべきではないでしょうか。

 修煉を始めてから、世間の人がいくら成功して輝いていても、それはすべて神様から授かったものに過ぎないと分かりました。人間は何をしても、決してうぬぼれてはならず、けっして自分を過大評価してはいけません。修煉者はもっとそうすべきです。師父は「修は己にありて、功は師にあり」[1]とおっしゃっています。私たちは自分自身で、何かできることがあるでしょうか。何をしても、すべて師父の手助けが必要ではないでしょうか。それならば、私たちが何をすれば師父は私たちを助けて下さるのでしょうか。

 師父は「法を学び心を修め、圓満成就の手段─煉功を加えて、確実に本質から自分を改め、心性を高め、次元を向上させることこそ、真の修煉なのです。」[2]と説かれています。師父は繰り返し私達に三つのことをしっかり行うよう教えてくださいました。それを実行することは私達大法弟子の基礎訓練で、必ず根気よく、毎日の必修科目として行わなければならないと私は考えます。そうすれば、私達は真の道が得られ、神への道から離脱することはないようになります。

 修煉当初、私は三つのことに対する認識が不十分でしたが、しかし、一応真剣に取り込んできました。神韻が各都市で次々と開催されるようになって、私はいつも様々なチケットの販売先を奔走し、毎日の三つのことをする規則が狂わされてしまいました。疲れから来る眠気は自分の意志を消耗し、目覚まし時計のアラームは聞こえず、煉功の時間には起きられなくなり、法を学ぶ時も集中できず、居眠りし、正念を発すると、手を倒したりしました。しかし、これらをすべて、神韻をやっているという理由で許してしまいました。

 ある日、魔難がひっそりとやってきました。頸椎の痛みは2012年の神韻営業に伴って、激しくなりました。その痛みは頸椎から腰椎まで広がり、私は毎日居ても立ってもいられませんでした。首はこわばって、動きが鈍くなり、手は高く上がらず、シャワーをしても背中を洗えませんでした。当時、歩くよりも立った方が辛く、夜、眠りに付いてから、やっと暫く、その苦しみから解放されるほどでした。

 地元では、神韻の仕事に専任しているのは私1人でした。仕事と業力の二重の圧力は私の心身とも極度に疲労させました。ある日、私は煉功しながら、涙を流して、自分が惨めで、気の毒だと思う気持ちに付きまとわれ、「貫通両極法」の単手衝灌をした時、他空間では、一筋の稲妻が私の右手の上方からずっと左足のかかとまで落ちて来たように感じました。私の腰痛はさらに激しくなりました。第4式の功法をして、手を内側に沿って下ろした時、私はしゃがむことすらできなくなりました。今度のことは警世の鐘が鳴り響くように、私に目を覚まさせ、自分が修煉者であることを思い出させてくれました。私は、決して邪悪に隙に乗じさせない、病業にどんなに妨害されても、神韻の営業に絶対に影響を与えてはならないと思いました。

 私は修煉当初の煉功時間と長さに戻しました。毎日明け方に起きて、体は雪解けが始まったように、関節はボキボキと音を立てていました。指はこわばって腫れて、煉功しても動作は正確に出来ませんでした。しかし、二時間の五式の功法をやり終わると、体は充電され、経絡が貫通し、筋肉と関節には潤滑油を入れられたように伸び伸びとしてきました。

 朝、私は頭が一番冴えている時、集中して『転法輪』の一講を学び、6時の全世界の大法弟子が正念を発する時間に正念を発して、それから、2時間ほど真相電話をかけ、その後、出かけるようにしました。このようにして今回、外出すると、まるで別人のようになり、神韻の営業も、本当に師父に導かれているように感じ、狭い道も広々とした大通りに変わり、外回りをしても、痛みは全く消えてなくなりました。もちろん、それは師父が弟子のために引き受けてくださったおかげです。師父に叩頭してお礼を申し上げます。家に帰ってから、自分で返済すべきものを、しっかり自分で返済するようにしました。

 私は、業力の消去にせよ、仕事にせよ、心性が修煉者の状態に達していれば、師父は必ず助けてくださることを悟りました。この二年間、三つのことをしてから出かけるのは、すでに私の習慣となりました。今まで、私は、毎日これだけのことはとてもやり切れないと思っていましたが、実際、時間は作り出すもので、実行して見れば、不可能は可能になり、そして、修煉も本当に正しい軌道に乗れたことに気が付きました。

 三つのことをしっかり行えば、それは修めている、と私は個人的に理解しています。ここでは、私は煉功に対する理解を述べさせていただきたいと思います。一部の弟子は三つのことの中に、煉功は言及されていないと思っているかも知れません。私自身も病気のために修煉を始めたわけではなく、修煉後も大きな業力の消去もなかったため、毎日、仕事と三つのことを一緒にすると、忙しくなり、知らないうちに煉功を疎かにしてしまったのです。

 師父は「法輪大法も性命双修の功法なので、煉功するのに動作が必要です。動作は、一つは功能を加持する働きをもちます。加持とは何でしょうか? それは強い功力で功能を強化して、ますます強くさせることです。もう一つは、身体の中にたくさんの生命体を演化させなければならないことです。高い次元の修煉になりますと、道家では元嬰出世を重んじ、佛家では「金剛不壊の体」を重んじますが、このほかに、さまざまな術類のものも演化させなければなりません。これらのものはすべて手法を通じて煉りますが、動作はそれらを煉るためのものです。完全な性命双修の功法には、修も必要とし、煉も必要とします。」[1]と説かれています。

 修と煉は融合して分割の出来るものではありません。『転法輪』では全編にわたり、私達にどうすれば功を伸ばすことが出来るか、どうすれば次元を高め、徳を功に転化させることが出来るかを説かれています。私達はどうして修と煉を分割することが出来るでしょうか? 三つのことをしっかりすることには五式の功法も含まれているはずです。

 一部の人は、師父が「あなたが煉功していない間も、功があなたを煉っています。あなたが煉功している時も功があなたを煉っています。食事している時、寝ている時、出勤している時、功は常にあなたの身体を演化しています。」[1]とおっしゃっていますから、それなら、私は毎日煉功しなくてもいいじゃないか……と思っているかもしれません。この依存心は修煉者が持つべき心でしょうか? 師父が慈悲で、私達世間の人を憐れまれておられますが、私達はどうして師父のご苦労を思いやってさしあげられないのでしょうか?

 修煉の道はそれぞれ異なります。しかし、三つのことをするのは大法がすべての修煉者に対する要求です。それは私達が他のことをするのと絶対対立しません。例えば、あなたは人間の中で良い考えを持っていれば、それは思い切ってやれば良いのですが、しかし、けっしてそれを理由に三つのことを不履行してはいけません。さもなければ、あなたは修煉者ではなくなります。

 師父は「くれぐれも自分が修煉している人だと忘れてはならず、この修煉の基礎があるから人を救うことができ、この修煉の基礎があるから、正念が強くなり、人を救うことができ、このことを行うことができます。」[3]、「あなたが行なったことは法に則っていなければ、法の力がなければ、あなた自身がしっかり修めることができなければ、そのことを円満に行うことができません。あなたはそのことを行なったかもしれませんが、そのことは作用を働かず、人を救うことができず、邪悪の要素を解体することにもあなたは作用を働くことができません。」[4]とおっしゃっています。

 人間から神に修め、その間の距離はどのぐらいあるのでしょうか? それは人間の知恵で到達できるものではありません。師父は私達の善に向かう心がほしいとおっしゃいました。重要なのは、私達の人間としての方法がどれだけ優れているかではなく、重要なのは、心が修煉者の状態に到達しているかどうか、発するその一念が正念――神念であるかどうかなのです。

 法を正す師に手伝いすることは私達の宿願です。機縁をしっかり掴んで後悔や遺憾がないようにしましょう。私達はお互いに手をつなぎ、共に進み、毎日しっかり三つのことを行い、修煉者の状態をしっかり保ち、人を救う使命を果たして、師父について家に帰りましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「修煉とは何か」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一二年米国首都国際法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/1/303861.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/2/8/148271.html)
 
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