青年大法弟子の体感 「修煉は初志貫徹すれば、必ず成就する」
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 【明慧日本2014年8月3日】師父の『世界法輪大法デーの説法』を読んで、師父が説かれた「修煉は初志貫徹すれば、必ず成就する」[1]の意味を深く理解することができました。

 私は1997年小学六年生から法輪功を学び始めました。この10年間、真剣に修煉をしていませんでしたが、今年になってようやく大法の修煉をはじめました。振り返ってみると10年はほんの一瞬で、学生だった私は現在30歳を過ぎています。

 私の家族で最初に法輪功を学び始めたのは私の祖母です。彼女は修煉をはじめると、難病が瞬く間に治りました。両親と私もそれに続いて修煉をはじめ、父は目の病気が治り病院へ行く必要がなくなりなりました。

 当時、法輪功は中国大陸で迅速に広まりましたが、『轉法輪』と煉功用の音声テープを入手するのはとても難しく、一冊の本さえ入手困難でした。はじめは私も母も音声テープがない環境で、自ら動作の回数を数えて煉功していました。最初に煉功の音声テープを聞いた時、私の目の前にある光景が現れたのを覚えています。私はある階段に立っていました。階段の上には古寺があり神聖でした。細かく整列された階段は数えきれないほどの段数がありました。今でもこの時の光景を思い出すと、私は感動します。またある日、通学帰りに急に霧に包まれました。数メートル先しか見えませんでした。正装した人が自転車に乗り、私の方へ来るのが見えました。よく見ると、師父ではありませんか。ほんの数秒の間、師父は私を見て頷くと笑って通り過ぎていきました。それ以降、師父は何度も夢の中で私に修煉の道に帰るよう気づかせてくださいました。師父のご慈悲と弟子への恩恵は決して忘れることができません。

 1999年、中国共産党は迫害を開始しました。迫害が始まる前日、母は法輪功の本と家にあった数万元を持って同修と市役所へ陳情に行きました。母は正念を持ち数日で無事に戻ってきました。日々、大法に対する誹謗中傷の宣伝が行われる中で、私たちは修煉を諦めたわけではありません。しかし徐々になまけていき、私は高校生になった頃に修煉から離れてしまいました。大学生の頃、修煉に戻ってきましたが、その後仕事が忙しくなり10年が過ぎました。

 再び修煉を初めて、私は師父の『二〇〇三年元宵節での説法』を読みました。読むたびに、私は声を抑えられずに泣きました。まるで自分が母のもとへ帰ったように感じました。私が手放したのは10年という月日だけではなく、師が法を正すというかけがえのない過程を無駄に過ごしてしまった時間でした。私が修煉を手放したことによって、どれほどの縁ある人が真相を聞く機会を失ってしまったのか、私と彼らとの機縁はたった一度であり、今振り返って彼らを探してももう見つからない事に気づきました。絶え間ない自責の念の中、私は師が法を正す過程に追いつくよう決心しました。

 私は他の地域にいるのでこの地域にいる同修と連絡を取る事はできません。私は唯一、以前資料作成を行った経験を生かし、自ら新しく資料作成所を立ち上げました。確かにこの地域の同修も行っていますが、私たちは一つです。家を出て資料を配るたび、私は真相資料が重複してしまわないか気にしていましたが、よく考えてみるとそれは間違っていました。すべては師父が行っていて、私はただ手足を動かしただけで、この願望を抱いているだけなのです。ある晩、私は『風雨天地行』のDVDを配りに行った時、道に迷っている夫婦を見かけました。私は彼らに道案内をして、別れ際に一枚のDVDを差し上げました。その奥さんはたいへん喜び、そのDVDを大事そうにコートの内ポケットにしまいました。師父が私を鼓舞してくださり、これは師父が私に下さった機縁なのだとわかりました。

 2014年の神韻世界ツアーの公演者の練習風景を見た時、私は本当に感動しました。同修たちが流した汗は衣服に染み込み、すべては観客に最高の演目を届ける為です。これほど美しく素晴らしい公演を中国大陸の人々に見せない理由はありません。そこで私は自分で神韻のDVDを作成し、街へ行って一人ひとりに渡しました。彼らが純粋な善の公演を見て救われるためです。

 神韻のDVDのみを制作していましたが、これだけでは正しくないと感じ、『九評』と『風雨天地行』のDVDも作成するようになりました。現在多くの人の共産党に対する理解は十分ではありません。甚だしきに至っては、大法弟子が作ったプラカードを目にした時でも共産党の邪悪さを理解しているとは言えません。この時『九評』は武器となり、共産党のすべてを暴露するのです。『雨風天地行』は真相を伝えることを明らかに手伝ってくれます。

 これらを行う過程で、私は徐々に安逸心が起き、法をもって法を認識できなくなりました。疲労感を感じ、ある朝、自転車で公園へ行き、真相を伝えるために電話をかけようとしたところ、道の途中で不注意からあと少しで足を怪我しそうになりました。この事は私に内に向けて探すよう警告したのです。それは自分の安逸心が現れたからでした。あわてて真相を話すのもまた執着なのです。『洪吟』「無為」にある「心を用いて當らざれば即ち有為 専ら善事を行うもやはり是の為にす」という師父の言葉を思い出し、私は気付くことが出来ました。真剣に行う必要があったのです。盲目的に行ってはいけなかったのです。

 集まって法を学ぶ環境がなかった為、ある時、私は怠けていました。ある時は思想業と色心色欲に惑わされ、修煉が滞ったこともあります。後になってわかり、自分を正しました。随時発正念をし、旧勢力が按配した試練に従わないようにしました。心を整えてそのまま法を学び煉功しました。私はすでに10年の修煉の機縁を失いましたが、師父のご慈悲によって再び弟子として大法を修煉することができました。難に遭った時、再び同じ様に躓いてはならないのです。

 時々、煉功をしていて涙があふれました。師父は私にあまりに多くのものを与えてくださいました。今生で法を得ていなければ、私は人生の波に流されて、深く堕落し、すでに戻れなかったでしょう。唯一、大法がすべての正しくないものを正に帰すのです。

 今、師父の新経文が再び私に「修煉は初志貫徹すれば、必ず成就する」ことについて気づかせてくださいました。残された時間がどれくらいあるにしろ、私は必ず師父がおっしゃった「三つのこと」を行います。寂しいからと言って、手を抜いてはいけません。真に法をもとに法を認識するのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の新経文:『世界法輪大法デーの説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/5/31/292731.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/6/17/1683.html)
 
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