文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年10月9日】泰山(たいざん)は中国の五大名山の一つで、歴史上の名山だけでなく、仙人が住む神秘的な山としても有名です。昔、泰山に登ることは、山を拝謁するとも言いました。泰山の山頂に登って、遠くを見渡せば、気持ちが直ちに広く大きくなり、古人は「泰山に登ればなんと天下の小さいことか」という名句を残しました。
師尊は当時、法を伝えられ、人を済度される中で、時間を作って泰山に登られ、その後、私達に貴重な法を残してくださいました。その中で、師尊は物に喩えて法を説かれ、心を尽くされて、私達をさらなる高い次元に向上できるよう指導してくださいました。
「登泰山」を学べば、私達は修煉のことをより明確に、より深く理解することができ、また、師尊の大法弟子に対する、言葉では言い尽くせないほどの慈悲と大法弟子を大切にされるるお気持ちを感じ取る事ができます。
昔、常人はよく、本気でなければ泰山に登ることはできないと言いましたが、今日、私達も同じく、本気でなければ、大法を修煉することはできません。
人は、勇気、強い意志、揺るぎない心、あるいは苦を恐れない気持ちがなければ、泰山に登ることはできません。一方、私達が修煉する場合も同じように、勇気、強い意志、揺るぎない心と苦しみに耐える精神がなければ、円満成就することはできません。
泰山はいかなる人の外因によっても、高さを下げて人を楽に登らせることはありません。一方、大法の修煉はもっと厳粛です。法は永遠に不変なもので、決して人によって基準を下げ、人を楽に成就させることはないと私は悟りました。
私達が泰山に登る時、子や孫を連れ、あるいは自分の捨てがたい金銭や貴重品を背負っていれば、どうして軽装で両手が空っぽの人に追いつくことができるでしょうか? 時間が来て、他の人はすでに山頂に到着しているのに、あなたはまだどこかの途中の階段に留まっているかもしれません。再び私達の修煉を見てみましょう。いかなる放下できない人心も、私達の向上の妨げになります。一部の同修は子どもの仕事の成否、孫の成長、生活の円満な幸福、これも、あれも放下できません。今の生活に未練を持ち、執着すれば、それは明日の悔し涙をもたらすかもしれません。
私達は世間に対する様々な執着や人心をきれいさっぱり捨てて、勇猛精進して、初めてさらなる高い次元に到達することができます。
「大法の弟子千百万 功成って圓満し高き処に在り」[1]。これは師尊の私達に対する希望と期待です。もし、私達が修煉の中で、泰山に登るように、苦を恐れず努力することができなければ、私達は円満成就できません。そうなると、私達は師尊の苦心の済度に背き、師尊にも自分にも申し訳が経ちません。最後に「登泰山」を学んで、同修の皆さんと互いに励まし合いましょう。
登泰山
よじ上る高き階千尺の路
うねりて険しきこと歩み難し
首を回せば正法を修するを看るが如し
天半ばに停まれば得度し難し
恒心をもって足を挙ぐ万斤の腿
苦を忍び精進して執着を去る
大法の弟子千百万
功成って圓満し高き処に在り
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「登泰山」