人間の観念を変えると 夫までも変わる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年12月21日】私は1996年から修煉し始めました。毎日欠かさず法を学んでいますが、人間の観念を変えず、いつも常人の理でもって物事を測っていました。それでいつも夫と言い争っていました。夫は「お前が俺と言い争わなくなったら、真の修煉者だと認めてやる」と言いました。

 人間の観念を変えると、夫までも変わる

 私は自分の行動を振り返ってみると、確かに夫の言う通りでした。自分の心性が刺激されれば、すぐに弁解していました。結局心性を守れず、高める機会を失ってしまって、いつも後悔していました。法を正す時期の大法弟子として、本来三つの事をしっかり行い、法を正す修煉の道を正しく歩むべきですが、私は自分を修めることができず、かえって法を正す進展を遅らせ、罪を犯してしまいました。ある日、私は突然師父が説かれた「強辯(きょうべん)に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐(たんかい)にて執着無ければ知見出づ」[1]を思い出し、しっかりと心に刻みました。(訳注:坦懐とは、こだわりのない、さっぱりとした心)

 それから、心性が刺激されるたび、私は師父のこの法を思い出し、自分を律し、自分の過ちを探しました。ある日、私は田舎へ法輪功への迫害の資料を配りに行って、帰りが遅くなってしまい、晩御飯の時間をとっくに過ぎてしまいました。夫はイライラして不満に思い、怒ってしまって、私の耳に触ることを言いました。私は反発しようとしたとき、自分が修煉者であることを思い出し、すぐに「ごめんね、お腹が空いたでしょう。これから時間通りに帰ってきますから、今日は許してください」と謝りました。それを聞いた夫は、自分の非を認めた私の態度に満足して、ニコニコしました。

 私が自分の観念を変えると、夫までも変わりました。それからというもの、ここ数年、夫はいつもオートバイで、田舎へ法輪功の資料を配りに行く私と同修を乗せて、送り迎えしてくれるようになりました。終(しま)いに、同修を家まで送っていきます。時には私が学法しに行くときも、オートバイで送ってくれます。まれに、私が家事をしていて、発正念の時間に気づかず、夫が「発正念の時間だ」と教えてくれます。修煉していない家族までもが、支援してくれるようになったので、私はなおさら、師父の慈悲なる済度に背かないように、もっとしっかりと三つの事を行わなければならないと思っています。

 比して学び、比して修する

 私たちは2004年に学法グループを作りました。五十代の同修から75歳の高齢者までいて、受けた教育がみなバラバラです。読み間違ったり、読み漏れたり、余計に文字を加えたり、まったく字が読めない人もいましたので、学法がなかなか進まず、2時間の学法でも、少ししか勉強できませんでした。もっと法を勉強したければ、時間を延長しなければならず、時間通りに家に帰ってごはんを作らなければならない同修もいますので、時間を延長することもできません。それで、暫く経つと、私はこれでは全体に影響してしまうと感じたので、字を知らない同修と相談して、2人で家で法を勉強することに決めました。

 始めの頃、私は少しずつ読んだ後に、同修が繰り返して読んで、しっかり覚えてもらうため、一段落を読んだあと、また何回も繰り返していました。それで、一段落の法を勉強するだけでも30分ぐらいかかりました。しかも、それでも同修は全部覚えきれず、読めない字がありましたので、私は焦りました。これでは、いつになったら、スラスラと読めるようになるのだろうかと悩んでいました。教えるうちイライラしてきたり、同修を責めたりしました。しかし、同修の法を勉強したいという気持ちがとても強く、私の方が負けていると感じました。

 ある日、師父が説かれた「相手のことは即ちあなたのことであり」[2]が頭に浮かんできて、私は自分が同修のことを自分のことのように見ていないことに気づきました。同じ法を修め、同じ師父の教えを学ぶのに、これでは、どうして師父の弟子であるといえるのでしょうか? 同修を責めることが、私にできるのでしょうか? 

 私の短気で落ち着きのない心を取り除いて、学法の時、自分の正念と同修の自信を加持してくださるよう、師父にお願いいたしました。それから2か月ぐらいの間、私は自分を修めながら、同修に教えていました。同修がやっと『轉法輪』を読めるようになりました。本当に師父が説かれた「修は己にありて、功は師にあり」[3]通りでした。

 同修が法を読めるようになってから、再び学法グループに戻りました。私は自分に「スピードを求めず、私(し)のための人心を取り除き、慈悲と寛容の心で、同修たちに対処しよう」と決めました。今日まで続けてきて、集団学法を通して、私たちは法に基づいて認識できるようになりました。何かに遭遇する時、自分を修め、比して学び、比して修する中で、私たちの心性が以前と比べ、どんどん向上しています。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟 三』「辯少なしに」
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇二年ワシントンDC法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/12/317153.html )
 
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