責任と好み
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年1月23日】長い間、私は困惑しています。つまり、人にすぐに依頼されることです。最初は、いい気分でしたが、長く続くと、疲れを感じてきます。私は相手や周りの人の気持ちを考慮していますが、相手は私の気持ちを考慮してくれません。相手から頼まれた事を引き受けると、その後も何度も何度も依頼されます。引き受けないと、相手は機嫌が悪くなることがあり、恨みを招くこともあります。

 私はこのような人とよく出会うので、心の中で本当に困惑しています。どうして私だけなのでしょうか? あるとき、このことについて友達に相談しました。友達は「これはあなたの好み、つまり、あなたが好きでやっているのではないでしょうか? これも執着心ですね」と教えてくれました。

 友達の言った通りかもしれません。以前、私は人の手伝いをよくしたり、相手の事を優先に考えたり、自分は善良な人だと思い込み、優しい人は良くいじめられたりすると考えたことがあります。まさか、これが自分の執着心だなんて、考えたこともありませんでした、この「好み」のせいで、自分に迷惑を招いたばかりではなく、人に頼る気持ちまでも重くさせてしまいました。修煉者として、難と遭遇した場合は、交流以外に、自分自身も立ち向かう必要があり、立ち向かって行くからこそ、本当に向上することができると思います。

 周囲に誰もいない、ただ1人だけの修煉者なら、訳のわからない事に出会うことはありません。修煉者として、難と遭遇した場合は、必ず取り除かなければならない執着があるからだと思いました。その後、私は自分の執着心を探すことに、努めました。すると、「歓喜心」のほかに、名利を追及する心、自己を実証する心などの様々な心が見つかりました。修煉者として、どれが自分の「責任」で、どれが自分の「好み」なのか見極める必要があり、これはやはり、法を師にし、「真・善・忍」に基づいて判断するべきです。堅実に修める弟子の基準で、徐々に自分を高めていき、しっかりと法を正す道を歩み、円満して師父と共に天国に戻ります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/1/13/322142.html)
 
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